アガメムノン家のM&A "Du" と呼びかける親密なリヒャルト・シュトラウスの愛を最後まで認めなかったパトリス・シェロー

[あちこち少しずつ直しています。]

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HMVに注文していたのが届きましたが、シェローの遺作になったエレクトラは、なんだか会社の乗っ取り劇を見ているかのようでした。(お屋敷の門を入って背後に建物の正面玄関が見える前庭でドラマが進んで、時代や場所を具体的に特定できる道具立てがあるわけではないけれど、とにかく、石造りの建物がドンと舞台に建ってはいても、そこにいる人間たちは、往年のバイロイト様式みたいに怪物めいた巨体が吠えるわけではないし、大理石のように梃子でも動かぬ仁王立ちの生きた彫像が対決するわけでもない。でかくて融通が利かないのは「組織」のほうなのであって、そこにはめこまれた個々人は、むしろ脆い、という風に見えますね。こういう感じの楽劇のスリム化は、今ではありがちですけど、かつてバイロイトでブーレーズと一緒にこの路線の先鞭をつけたシェローが、楽劇のなかでも一番重たそうな、シュトラウスが大理石のように重たい作品に意図して仕上げたエレクトラの軽量化を図って、そこで死んじゃったので、総決算に見えてしまうのはやむを得ないところがあるかもしれませんね。)

以下、ネタバレを気にすることなく、だらだらと感想を書いてみます。

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「会社の乗っ取り劇みたい」と書きましたが、おおざっぱに言うと、

アガメムノン商会は、夫が社長、妻クリュタイムネストラが副社長の家族経営で地道にやっていたのだけれど、大番頭格のアイギストス専務が妻の副社長に取り入って急転直下の社長解任、アイギストスが後釜に座ることになった。

前の社長の息のかかった人間は少数派になっていて、古株の女子社員が、アイギストス派にイジメられているところで舞台の幕が開く。

……みたいな感じがする。

新入社員っぽい女の子が、イジメの現場をみて、ややこしい会社に入っちゃったな、という表情をしますし、

一方、次女のクリュソテミスは、今の生活が辛いと愚痴を言いながら、男をつかまえて寿退社して、専業主婦で暖かい家庭を築くのが女のシアワセ、と夢を見ている一昔前のOLさんに見える。

不穏な雰囲気で登場する「副社長」クリュタイムネストラは、現社長のイエスマンしか周りにいなくなったことに苛立って八つ当たり。先の新入社員っぽい女の子は、「そこのお前(du)!」と指さされて、舞台の真ん中に立たされちゃう(笑)。

(よく見ると、アガメムノン派の人たちは、みんなリタイアしていておかしくない老人ばかりですから、社長交代から相当な年月が過ぎているかもしれない。

トロイ戦争の伝承と合っているかどうかは知りませんが、社長交代の頃は赤ん坊だったクリュソテミスが今では結婚を考えるお年頃なのだとした15年は過ぎている。彼女が適齢期を過ぎそうで焦っているとした20年以上経ったかもしれない。

[追記:無知を晒す書きぶりになっておりますが、ソフォクレスではオレステスが事件から8年後に戻って来るようですね。子どもの8年は容貌が変わってしまうに十分とはいえ、そこまで長い年月が経ったわけではないようです。シェローが老人と若者を対比するのは、先の事件からの時の経過を舞台上で一目でわかるようにするための誇張ですね。]

あれから随分経った、という設定は、後述の母と娘の対決シーンや姉と弟の再会シーンにも効いていて、家族といっても彼らはお互いの顔すらよくわからなくなってますし、新人社員さんは、前社長の解任劇で何があったのか、知らずに入社したのでしょう。彼女は、あとでエレクトラがクリュタイムネストラにあてこすりを叫ぶ場面で、過去の惨劇を正確に把握したわけではないにしても、何かとんでもないことが起きつつある感じに目を丸くして驚く芝居をエレクトラの後ろでやっている。そうやって、一方のアガメムノン時代から仕えているおばあちゃん(オレステスが死んだ、のニセ情報でほんとに涙を流したりして、カーテンコールで拍手喝采を浴びている)との違いが浮き彫りになっていく。アガメムノン派とアイギストス派の対立というアイデアを、老人と若者の世代の差で肉付けしたんですね。)

演奏もほとんど情に溺れる感じがなくシャープでスピーディですし、このあたりの社内のとげとげしい対立のドラマだけで十分に面白くて、もう、エレクトラたちは、「副社長」クリュタイムネストラと血縁関係がなくてもドラマが成立してしまいそうです。先代社長に忠義立てして「倍返し」のチャンスを狙っている「女・半沢直樹」一派と思っておけば問題なさそうな舞台だなあ、と思いました。

エレクトラの変なダンスは、半沢直樹のしかめ面みたいな様式美。ニーチェとか超人思想とか、「68年の思想」(ポストモダンの源流はニーチェだとよく言われる)とか、爺さんたちの若い頃の思い出の残りカスみたいなものには、こだわってなさそうですね。

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冒頭が「お掃除」のシーンではじまって、コンヴィチュニーの「マクベス」と比較するのに丁度よさそうなプロダクションにも見えますが、やっぱりドラマの風土は随分違う。

コンヴィチュニーは現業さんに「同じ仲間じゃないか、肩を組もう」と歩み寄り、酒を酌み交わしそうなリベラルだけれど、シェローは物語をホワイトカラーの世界に翻案して、徹頭徹尾、冷徹なビジネスマン・管理職の話ですね。

脇役も含めて、各人の強靱過ぎるけれども「合理的」ではあるのかもしれないエゴが衝突するドラマであって、肉親の血みどろの争いという感じはしないですね。コンヴィチュニーはヒューマニストだけれど、シェローのベースは人間不信だと思う。連邦諸都市の「共和国のオペラ」の住人と、差別(ディスタンクシオン)の力学が作用する中央集権組織や、共同制作をとりまとめるオペラの国際シンジケートと渡り合うフランスのエリートの違いでもあるのでしょうか。(日本で言えば、早稲田的・野党的な小劇場のノリと、東大的・与党的な国立劇場の違いか?)

男女の幸福な恋愛などというものは成立しない、という話を作り続けてきた人だから、「親子の骨肉の愛憎」も認めないんでしょうね。

母と娘、姉と妹、父と娘がそれぞれ心を一瞬通わせたかのような場面にリヒャルト・シュトラウスが付けているバイエルン風味の甘ったるい長調の音楽は、この作品の場合すべてフェイク(岡田暁生だったら保守的な観客のための「撒き餌」と言うだろうようなもの)だと思いますが、この感じは本当にシェロー好みだなあと思います。妹の結婚の夢とか、母親の和解の願望とか、父親を礼儀正しく案内してみせるところとか、全部、そのあとに完膚なきまでに裏切られるわけですよね。妹に至っては、姉さんから、ほとんどレイプされそうになる。ホフマンスタールとシュトラウスの狙いとしては世紀末のデカダンですが、こういうのがそっくりそのまま、シェローの好きな「愛の不可能性」の表現、夢や甘さや優しさは全部虚偽だ、という話になってしまうんですね。現代では古びてしまった表現主義のドロドロを全部洗い流して、すっきり演出し直してみたら、シュトラウスが保守的に、あるいは自堕落に手加減した部分が、むしろドラマの核心部分であるかのように、くっきり、はっきり見えてきた。このあたりの手腕はさすがですね。頭がいい。

ワーグナーへの観客の共感に亀裂を走らせるバイロイト100年目の問題提起で世に出た人が、最近日本でも人気急上昇中のリヒャルト・シュトラウスの保守的な偽善を生誕150年のアニヴァーサリーに乾いたサスペンスとして再生させたということで、筋の通った人生でした。

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ところで、

クリュタイムネストラは、長い間エレクトラとは会っていなくて、間近で顔をしげしげと見てようやく、ホームレス同然のばばっちい女の子が我が娘だと気づいて、はっとする、みたいな不思議なお芝居ですね。

台本をみると、クリュタイムネストラは「sie(あの女)」と三人称単数の代名詞しか使ってないので、その浮浪者が娘だということをほとんど忘れている、と解釈にしても大丈夫、ということでしょうか……。本来の設定では、もう娘だとは認めない、という意思表示で、名前を呼ばずに sie と突き放してるんだと思いますが、もっと現代的に身勝手な感じの人物像ですね。

で、よく似た場面ですが、あとのほうの、謎の客人がオレステス本人だと誰も気づかない、という、ちょっとお約束めいて不自然な展開も、一手間かけて組み立て直されている。

[ここから映像を見直して改稿]

オレステスとその従者に最初に気づくのはアガメムノン時代からの年配の社員たちなんですね。彼らとの再会を祝福する芝居があったそのあとで、彼はようやく、穴蔵で斧を手に何かわめいているアブナイ女子がエレクトラだと気づいて、彼女に素性を明かす。

この場面をこういう風に作るための準備は周到で、この少し前に妹クリュソテミスが「私たち(wir)以外みんな、オレステスが死んだと知らされているの、私たちだけ蚊帳の外なのよ」とエレクトラに訴える場面は、古株社員たちが舞台に出ていて、「私たち wir」は発話者クリュソテミスと、彼女が語りかけているエレクトラの二人だけ(これが本来の台本)でなく、そのとき舞台にいる全員が「wir」だと読み替えさせている。オレステスが死んだ、という社内の重要機密は、現社長アイギストス派が独占して、前社長アガメムノン派の残党には伏せられている、ということにしたんですね。窓際族になった人たちの悲哀を強調することで、そのあとの逆転が引き立つわけだ。

(でも、ここまでおじいさん、おばあさんたちを可哀想な存在として印象づけているのに、この人たちがクリュタイムネストラとアイギストスの死で溜飲を下げるところは舞台裏に隠して見せない。勧善懲悪のカタルシスを狙ったわけではなく、老人たちが救われたのか、よくわからない。)

ともあれ、誰も「du」という親称を本当の意味での親密さの表現として使っていない。むしろ、目上の者が使用人を呼び捨てにするのが、この作品世界における「du」ですね。そうしてそこに、「sie」や「wir」の対象・範囲を変換するトリックが加わって、人称代名詞の政治とでも言うべきものが、シェローの読み替えの鍵になっているようです。(人称代名詞の政治学は、フランスの文学研究や文芸批評の人たちが好みそうなテーマですしね。ヌーヴォ・ロマンは「二人称小説」を試みたりしたわけだから……。)

こうした処理で、一般従業員と、管理職であるアガメムノン家の人々の違いがはっきりする。アガメムノン家の人々は、血はつながっているのだけれど、お互いに長い間離ればなれであったり、別居絶縁状態で、直接会っても、お互いを認識することすらできなくなっている。むしろ、一般従業員たちのほうが、今、誰がどういう状態で何をしようとしているか、具体的にわかっているんですよね。

(その上で、一般従業員たちは、ヤバいと思えば、関わりにならないように部屋に隠れて息を潜めて様子をうかがっていたりする。「ここにいたら私たち殺されちゃうわ」と叫ぶのが例の新人風の女の子なのも、[当初はあまり意味がないかな、と思いましたが]考えてみたら、容赦ない話ですね。新人さんで慣れない仕事に戸惑うことはあっても、イザというときはエゴイストぶりを誰よりも先に発揮するわけで、この娘は、エレクトラと同じくらいサバイバルできる確率が高いかもしれない。)

神輿の上の管理職が現実から遠ざけられた状態は、スター歌手やスター演出家や劇場支配人それぞれの周りにびっしり「取り巻き」がいて、その「取り巻き」が事前にお膳立てしないと、歌手や演出家や支配人は自由に人と会えないし、いきなりアポなしで会っても話が通じない、というように、専門職の制作部門と事務・営業職の管理・経営部門が分離して行き着く先に出来上がった現在の興行システムと同じだと思います。

コンヴィチュニーが「ミラノやメトロポリタン」と呼ぶ世界ですね。

シェローも、決してそういう世界に安住してそれでいい、と思っている人ではなさそうには見えるし、そうでなければ、こういう舞台を作らないと思いますが、アプローチはコンヴィチュニーと対照的ですね。

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映像作品としてもなかなかよく出来ていて、先程来「新入社員みたいな女の子」と書いているのは、第4の侍女 Vierte Magd ですが、この演出では、Vierte Magd が、歌わないときにもクリュタイムネストラやエレクトラに絡むので、何度もカメラに映ります。で、惨劇のあとは舞台上手に他の従業員といっしょに座って事態を傍観しているのだけれども、後ろ向きの肩越しに、鋭い目つきでエレクトラを見据える印象的なバストショットが、エレクトラの最後の歌のあいだに、わざわざ編集で挿入されていたりする。

エレウトラもオレステスも茫然自失で管理職としては役立たずっぽいので、幕が下りた先の世界では、クリュソテミスが(「できる男」をちゃっかりパートナーにして)社内の宥和と再建をてきぱき進めちゃうかもしれませんし(笑)、

それはそれとして、映像的には、めちゃ気の強そうな Vierte Magd が、この事件を全部がっつり観察している視点人物のようにも思えてきます。

[演劇、舞台表現は観客が演者の内面に入り込むことができませんから、視点・焦点というような近頃の小説論の道具立てをそのまま使ってはいけないと思いますが、カメラが二次元平面を切り取る映像表現は、逆に、視点・焦点の設定から自由になることができない。このあたりの、舞台演出家と映像監督のせめぎ合いが、Vierte Magd をめぐって起きているようにも思います。]

映像を家庭で眺めるときには、視聴者が新入りの若い女の子に感情移入して見てもらうのがいいだろう、ということもあるのでしょうか。シェローの演出で、美味しい役に育っちゃってる感じですし。

見どころの多い映像でございました。