すべては「アラベラ」からはじまった:ヨゼフ・ギーレンのこと

当市では、ワインガルトナーやエドウィン・フィッシャーとホテルが一緒で知己を得たこと、フィッシャーとシュナイダーハン及び、セロのマイナルディ(Enrico mainard)[ママ]との欧州第一と云われるトリオの演奏もきくことができたのは収穫だつたが、何よりも得難いことはウィーン、ブルグ劇場の総監督ギーラー教授[ママ]が、歌劇「アラベラ」の演出指導のために招かれて、フランクフルトへ来ていたことである。

(朝比奈隆「フランクフルト歌劇場から」『音楽之友』1054年3月号、94頁)

そのうち、ちゃんと裏を取ろうと思っていたのですが、エレクトラをDVDで何度もながめて(ウソをいっぱい書いたのではないかと何度書き直しても不安が尽きない)、今はリヒャルト・シュトラウスな気分なので、少し調べてみた。

朝比奈隆は1953/54年に欧米を視察して、なかでもフランクフルトで「アラベラ」の稽古を見学して、大いに感銘を受けたらしい。そうして、西洋式の演出を付け焼き刃でマネても到底かなわないから、だったら、日本の歌劇は歌舞伎に学ぶべし、ということで、帰国後早速、武智鉄二を関西歌劇団に招いているので、関西のオペラは、フランクフルトの「アラベラ」からはじまったとも言えそうな気がするわけです。

で、朝比奈隆が「アラベラ」の稽古の何に感銘を受けたかというと、当時のブルク劇場ディレクターが歌手たちから大いに尊敬されていたのだとか。

じゃあ、この朝比奈の目にカリスマと見えた人物は何者なのか、ということです。

『音楽之友』の活字は「ギーラー」と読めるのですが、あれこれ検索しますと、ギーレン Josef Gielen (1890-1968) が正しいようです。

1948 wurde für den Wiederaufbau ein Wettbewerb ausgeschrieben: Josef Gielen, der damals Direktor war, tendierte zuerst dazu, den ex aequo erstgereihten Entwurf von Otto Niedermoser zu unterstützen, nach dem das Haus in ein modernes Rangtheater hätte umgebaut werden sollen.

Burgtheater – Wikipedia

既にこの段階で、「なるほど」と思った方がいらっしゃるかもしれませんが、

1921 begann er auch als Regisseur zu arbeiten und wurde als Oberregisseur nach Dresden berufen. Hier war er von 1924 bis 1934 am Staatlichen Schauspielhaus und danach bis 1936 an der Staatsoper tätig, wo ihm Richard Strauss die Regie der Uraufführungen von Arabella (1933) und Die schweigsame Frau (1935) übertrug.

Josef Gielen – Wikipedia

ヨゼフ・ギーレンは、ドレスデンで「アラベラ」と「無口な女」の初演を演出した人。

朝比奈も、上の文章の続きで、そのことは書いています。

シュトラウスの現代劇「アラベラ」は「バラの騎士」と並んで、欧州の各歌劇場のもつとも人気のある出し物の一つであるが、ギーラー[ママ]は、二十年前ドレスデンでの初演の時にも、シュトラウス自身の懇請により、特に招かれて演出を担当した人である。

(まったくの余談ですが、バラ/ばら/薔薇は、どの字を使うか悩みますね。ちなみに、ベルばら、は「ベルサイユのばら」がコミックおよび宝塚の表記みたいですね。Rosenkavalier も「ばらの騎士」がいいのかな。)

広瀬大介さんの「無口な女」研究はシュトラウスとツヴァイク、ナチスとの関係に焦点があって、初演の演出家ギーレンのことは脚注に出てくるだけですが、広瀬さんの研究と特に矛盾した記述があるわけではないので、ウィキペディアの説明を信用しても、ひとまず大丈夫なのかなあ、と思う。

リヒャルトシュトラウス 「自画像」としてのオペラ《無口な女》の成立史と音楽

リヒャルトシュトラウス 「自画像」としてのオペラ《無口な女》の成立史と音楽

で、ヨゼフ・ギーレンは数奇な人生を歩んでいて、妻は、シェーンベルクの仲間として知られるエドゥアルト・シュトイアマンの姉のローザ。ナチス時代は、妻がユダヤ人なので難しい立場になって、1940年にアルゼンチン、コロン劇場に逃れたようです。そうして戦後ウィーンへ来るようですが、戦時中をコロン劇場で過ごしたギーレンというと、ピンと来る人はピンと来ますよね。

ミヒャエル・ギーレンはヨゼフの息子です。

(既に1950年代はウィーンの歌劇場のコレペティをしていたみたい。クライバー家は指揮者の息子が指揮者を継いで、コンヴィチュニー家は指揮者の息子が演出家になって、ギーレン家は俳優・演出家の息子が作曲家・指揮者になったんですね。戦後ドイツのオペラ界は二世だらけじゃないですか。歌舞伎と大して変わらんぞ(笑)。)

朝比奈隆は、フランクフルトで、あのギーレンの父親のカリスマぶりに感動して、それで「オペラは演出だ」と思い込んじゃったようなんです。

シュトラウスのなかでも、会話とアンサンブルがことのほか緊密なアラベラの稽古を見てしまった、というのは運命ですよねえ。ドイツの劇場文化の直球ど真ん中。

(そういえば、わたくし、1988年のバイエルン州立歌劇場来日のアラベラがちゃんとしたオペラを観た最初ですが、あれは日本初演だったようですね。)

まだ世の中には、色々と妙な因縁が隠れているようです。

やっぱり、関西のオペラが演出にうるさいのは、しょうがないんですよ(笑)。朝比奈隆が、パパ・ギーレンの姿を思い浮かべながら基礎のレールを敷いてしまったんですから……。

ベルリンでドイツ帝国時代のシュトラウスの名声を間近に体験した山田耕筰が「黒船」を皇紀二六〇〇年に発表して、フンパーディンクの弟子グルリットがワーグナー上演に執念を燃やした東京とは、ドイツのオペラといっても目の付け所が違いそうです。