イタリア詩人の市場価値

モーツァルトの台本作者 ロレンツォ・ダ・ポンテの生涯 (平凡社新書)

モーツァルトの台本作者 ロレンツォ・ダ・ポンテの生涯 (平凡社新書)

一つ前(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20140825/p1)のつづき、補足です。

アンデルセン「即興詩人」は、アルプスより北の世界には19世紀になってもイタリアの即興詩人へ憧れがあった証拠だと思いますし、これをドイツ語訳で知った森鴎外が文語で訳したのは、ヨーロッパにあった「アルプスの南」への憧れに、ニッポンジンのヨーロッパへの憧れを重ねて話が二重になっているのでしょう。

「歌はイタリア語に限る」

という思い込みは、こんな風に発生経路が入り組んでいるから、このビョーキを発症すると治癒が難しくなるのかもしれませんが(笑)、

だからこそ、「病原ウイルス」であるところのイタリア詩人の正体をちゃんと見極めておいたほうがいいように思います。

ビョーキの原因を特定する近代医学をそう簡単に捨ててはいけない(笑)。

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ダ・ポンテはゲットーのユダヤ人の革職人の息子で、神学校に入ってラテン語を学び、ルネサンス以来の俗語文学に触れて即興詩人としての才覚で世の中を渡っていくようになる。

ただし、ダ・ポンテは1749年生まれでモーツァルトと7歳違いの「若手」。オペラの仕事はドイツ(ドレスデンからウィーンへ)に出てから覚えたようですし、ここまでギリシャ文芸の形跡がないのは、むしろ極端かもしれませんね。

(ギリシャ文芸を受容する文化の広がりのなかにオペラがあると考えると、ダ・ポンテという改宗ユダヤ人の台本にザルツブルクのステージ・パパの息子が書いたコメディを劇団の活動の中核に据える、というのは、なかなか危うい位置取りということになるかもしれない。啓蒙君主ヨーゼフ2世が死ぬと、ウィーンのオペラ・ブッファのカンパニーは解散させられちゃったようですし……。

日本からイタリアに歌の勉強に行くと、彼の地の人たちがモーツァルトを大して重視していないことに皆さんショックを受けるらしい。で、「ドイツこそオペラの本場」という潜在的ワグネリアンな頭で考えると、「イタリア人は脳天気なナポリのカンツォーネで声を張り上げたり、ヴェルディのブンチャッチャで満足できてしまうようなバカだから、モーツァルトの偉大さがわからないのだ」ということになるかもしれませんが(笑)、たぶん、モーツァルトのことを、イタリアの韻律があまりよくわからず、ダ・ポンテという山師にダマされたゲルマンの田舎者、と見る視点がイタリアにはあり得る、ということじゃないかという気がします。

ロッシーニがモーツァルトのオペラを評価して、そこに可能性を見いだしたのは、当時のイタリアのオペラ関係者としては先進的なことだったんじゃないかと思います。100年後のヴェルディやプッチーニがドイツやフランスの音楽を彼らなりに研究したのもそうですが、イタリア・オペラに適宜外国の影響が入っているのは、ドイツ人がイタリアの音楽を一方的で強引な優越感(ナショナリズム)で見下すようになっていくのと対照的に、イタリアの音楽家たちは、外国のいいものを正当に評価できるくらいに「文明的」だった、と立論していいかもしれませんね。)

コメディア・デラルテの作家たちはもうちょっと上の階級の出身だったようで、ゴルドーニ(1707-1793)は、はっきりしないけれども父が医者で、ラテン語とギリシャ語を学んだらしい。

で、オペラ・セリアと言えばメタスタージオですが、

グラヴィーナは少年の詩の才能とかわいらしさに惚れ込み、2、3週間後、メタスタージオを自分のprotégé(被保護者)にした。父親は自分の息子に良い教育と社交界に入れるチャンスが与えられたことを喜んだ。

本名のトラパッシをギリシャ風に「メタスタージオ」に変えたのはこのグラヴィーナだった。自分と同じ弁護士にしようと考えてのことで、ラテン語と法を教えた。同時に、天賦の詩の才能にも磨きをかけ、自宅で、ローマの仲間たちの前で、少年の神童ぶりを見せつけた。メタスタージオはたちまち有名になり、イタリアの名誉ある即興詩大会に出場し、優勝を競い合った。しかし、日中は勉強、夜は大会と忙しすぎるため、健康を害してしまった。

グラヴィーナは仕事でカラブリアに出張した時、メタスタージオも連れて行き、ナポリ文壇に紹介した。それから、スカレーアの親類グレゴリオ・カロプレーゼにメタスタージオを預けた。田舎の空気と南海岸の静けさの中、メタスタージオは健康を回復した。グラヴィーナもメタスタージオの才能を詩の即興で二度と消費させず、将来学業を終えた時、偉大な詩人たちと争う時のためにとっておくことに決めた。

メタスタージオはその期待に応えた。12歳にして『イーリアス』をオッターヴァ・リーマに翻訳し、その2年後には、グラヴィーナが好きだった、ジャン・ジョルジォ・トリッシーノ (Gian Giorgio Trissino) の『Italia liberata』のテーマからセネカ風の悲劇を作りあげた。

ピエトロ・メタスタージオ - Wikipedia

ピエトロ・トラパッシ(1698-1782)という詩の才能のありそうな少年が、詩人を目指すんだったらギリシャだ、と、師匠からメタスタージオという名前を授かり、12歳でホメロス「イリアス」を使いこなして名をあげた、ということのようです。

お話としてできすぎているような気はしますが、オペラ・セリアの台本作家となるには、ルネサンス人文主義の洗礼を受けて、ホメロスに通じていなければ話にならん、という印象を受けますね。

ラテン語はカトリックの公用語だから、大学へ行って高等教育を受けるような良家の子女(あるいはしかるべき教養を順次身につけるのであろう貴族)じゃなくても、神父から手ほどきを受けて神学校へ進むコースがあった。でも、ギリシャ文芸は、しかるべき人文主義のサークルにアクセスしないと身につける機会がなくて、オペラの台本作家は、そういう特殊技能を習得した者が書く、人文主義者の専門職だったように見えます。

19世紀にもっと新しい時代の題材でオペラの台本が書かれるようになったときに、何が変わったのか、変わらなかったのか、気になります。

(メタスタージオは、ギリシャ文芸という「特殊技能」を身につけることで周囲の即興詩人から頭一つ抜け出すことができたのだけれど、後年ウィーンへ来た頃には、ギリシャ古典に関する情報が広まり陳腐化しており、むしろ、オペラ・セリアという形式・様式に精通する台本を書けるところが「売り」になった。そして、だからこそ、オペラ・セリアに一定の需要があったときはいいのだけれど、彼が想定したようなタイプのセリアが廃れると、彼の存在意義がわからなくなってしまった。長生きしたせいで、彼はそんな風に時代の変転を経験したようにも見えます。)

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ところで、

メタスタージオやダ・ポンテの名前が現在に残っているのは、ウィーンの宮廷の庇護を受けたからですよね。

ちょうどカストラートたちが外国に出て、彼らの人気が高いロンドンやドイツで荒稼ぎしたのに似た「詩人の出稼ぎ」という感じがします。

各地の宮廷が競ってイタリア人を招いてイタリア・オペラを上演しようとした「バブル」があって、そのおかげで職にありついた「自称・詩人」がひょっとするといたかもしれないし、ダ・ポンテはちょっとそんな感じにも見えます。

イタリア語(に作曲したイタリアの歌と歌劇)は素晴らしいのだけれど、それを操るイタリア人はいかがわしい、というダブルスタンダードというか、芸と人の区別が、どこまで妥当なのかどうか。特定の国・地域の文化・芸能が国際的に流行すると、しばしばこういうことが起きるようで、

蓮實重彦は「私はアメリカを評価しないが、ハリウッド映画は素晴らしい」みたいにかっこつけて言ったりしますが、別にそれは、一種の美学としての表象文化論が作品と作者を切り離す、というような高尚な話ではないような気がします。

世界の色々なところでNINTENDOやSONYのゲームやジャパニメーションが享受されているらしいけれど、これがすぐに、生身のニッポンジンとの交流を促すとは限らないし、過大な幻想をもたれると、かえって話がややこしくなりそうなのはすぐに想像がつく。

だから、「イタリアの歌」に感動してイタリアが好きになる、というのは、症状としてはありふれていて、その先に分け入らないと、音楽劇における言葉と音楽の話にならないでしょうね。