「ナクソス島のアリアドネ」初稿のこと、マクヴィカー演出「サロメ」の日本語字幕のこと

Ariadne Auf Naxos [DVD] [Import]

Ariadne Auf Naxos [DVD] [Import]

  • アーティスト: Wiener Philharmoniker,Harding
  • 出版社/メーカー: 株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: DVD
  • この商品を含むブログを見る

ザルツブルク音楽祭で話題になった、とか、NHKでも放送された云々というのを知らずに、シュトラウスがマイブームなので、今の世の中、ナクソス島のアリアドネの初稿を町人貴族とあわせて上演した映像がひとつくらいあるだろうと思って探して見つけたのがこれだったのですが、

DVDをみるだけでも、多幸感で胸が一杯になるプロダクションですね。

町人貴族の管弦楽組曲は、これだけでは何がなんだかわからないし、「ナクソス……」は、通常の上演をみるたびに「前半のドタバタは芝居でやったほうが面白いに違いない」と欲求不満が募っておりましたので、あるべきものがあるべきところに収まったことのシアワセがひとつ。

(作曲家役はメゾ・ソプラノの大事なレパートリーなのでしょうから、これが出てこないのが残念な人には残念なのでしょうけれど。そして芝居の台本はモリエールをホフマンスタールが改作して、さらにベヒトルフが今回のために仕立て直したので、シュトラウスのどの曲がどこに入るか、これが「正しい位置」だ、というのとは違うと思いますが、劇音楽とはそういうものだろうとも思う。「あるべきものがあるべきところに収まる」感じには、劇音楽が、観賞用純音楽で問題になるような「正しさ」から解放された清々しさが含まれます。)

それから、芝居とオペラが「融合」するのでなく、ガッチャンコと「合体」する無造作な手つきが1920年代を先取りしている感じで楽しいのがひとつ。表現主義とは違うもうひとつの20世紀、と思ってしまいます。

(モリエールとリュリのコメディ・バレエは、ルイ14世の庇護で好き放題できた二人が、安直な思いつきを勢いでやっちゃった、ということに思えて仕方がないのですが、その、勢いでやっちゃった感をしっかり継承しているところが嬉しい。)

そしてホフマンスタールはザルツブルク音楽祭設立に関わった人ですもんね。そのホフマンスタールを舞台上に登場させて、もともとが劇中劇であるこの出し物に、もうひとつ外側の枠をはめるのは、ネタとしてお見事としか言いようがない。

(第1部の町人貴族の最後に「楽屋」のシーンを足して、オペラ・フリークなお客さんへのサービスもしてくれるし……。)

DVD、Blue-Rayに日本語字幕がないのは、残念ではありますが、仕方がなかったのでしょうか。

ジュルダン夫人が田舎訛り丸出しのドイツ語だったり(Jaがほとんど「ヨー」に聞こえるのは、ありがちなようにも思われますが、どこの方言なのでしょう)、モリエールのお芝居だということで、ところどころにフランス訛りのドイツ語を入れたり(Ich habe を「イッシュ・アーベ」と言う、みたいな(笑))、芝居はドイツ語圏向けのローカルな作りですし……。

でもそういうことを言い出すと、ホフマンスタール&リヒャルト・シュトラウスが、モリエール&リュリを気取ってご満悦な感じが、そもそも、微妙にダサいかもしれない。「メタ」で遊ぶのは、どうあがいても、そのルールを共有しない立場からは内輪受けに見えてしまいますよね。

ザルツブルク音楽祭がホフマンスタールにちなむのは「アリ」だろうし、あくまで一度限りの縁起物ということで成立した出し物だったかなあ、という気もします。

そしてハーディングという人は、いっつも、こういうオタクっぽい企画に一枚噛んでるなあ、と思ってしまう(笑)。

[関西二期会の新国での公演がイマイチだったのは、確かにあの公演をそのまま持っていったら盛り上がるまいと当時私も思いましたが、それよりも、初稿を「失敗」と断じるところに、この人の「らしさ」が現れている。管理職の判断、現場への訓示みたいな文章だなあ、と思います。そういうタイプの人は、「ナクソス……」初稿とは一生無縁で終わりそう……。現場が勝手に動くのは、結果がどれほど面白かったとしても、管理部門的には「失敗」なのです(笑)。→ http://yohirai.asablo.jp/blog/2008/01/26/2580026 ]

      • -

リヒャルト・シュトラウス:楽劇《サロメ》英国ロイヤル・オペラ2008 [DVD]

リヒャルト・シュトラウス:楽劇《サロメ》英国ロイヤル・オペラ2008 [DVD]

すべての瞬間がそのまま舞台写真に使えそうに思えてしまうヴィジュアル重視で、「見れば何をやろうとしているのかわかる」演出だと思いますが、ひとつの「絵」から次の「絵」へと順に移行して結末に至るドラマを実際に演じる役者さんの気持ちが、本当に全部ちゃんとつながっているのか、要求が精緻すぎて、かなり過重な負担を強いられているところがあったりしないのかなあ、とも思った。

(特にサロメの最後の長丁場は、上手の階段に腰を下ろして、生首がゴロリと手から落ちるあたりで、一度、気持ちが切れて、歌・音楽だけが浮遊してしまっているようにも見える。歌唱は素晴らしいと思うし、そのあと持ち直して、ものすごい集中力で最後にたどりつくけれど……。)

字幕の大変さ、ということで言えば、映画のようにスタイリッシュ(それだけでは済まないけれど……)なマクヴィカー演出のサロメの日本語字幕は、何故ここでオーケストラがこういう音を強調しているのか、ということまでわかるように訳してあって、すごく「正しい」感じがするのに、どういうわけか「○○じゃ」みたいな時代劇風の語尾が頻出する。20世紀の設定で演出しているのに、これはどうかなあ、と思っていたら訳者は広瀬大介さんで、ライナーノートには、ワイルド/ラハマンの台本の言葉遣いについてのコメントがあった。(その話とは直接関係ないけれど、これは「読み替え演出」ではなく「読み込み演出」だ、という広瀬さんの決めの言葉も印象深い。)

以下、このDVDの話から離れて一般論になりますが、

たしかに台本の言葉を精確に読み込んでいくと、韻文だったり古めかしい語彙を使っていたりする台詞をそのままにして、衣装や設定だけ現代にするのは、どうあがいても無理が出てくるのかもしれませんね。そして研究者としては、その違和感の痕跡を消すわけにはいかないかもしれない。

(サロメでは直接問題にならないと思いますが、さらに話を広げると、韻文をどう日本語に訳すか、ホメロスやギリシャ悲劇の段階からずっとつきまとう難題なのだろうと思います。そして日本の芝居が現代でも「七五調」とのつきあい方を意識せざるを得ないように、韻文 Vers と散文 Prosa の違いはヨーロッパの演劇でずっと意識され続けているのだと思います。上のナクソス……というか町人貴族でも、ジュルダン氏と Hausmeister氏の間で韻文と散文の違いがひとしきり話題になったりする。そういう問題などないかのようなフリをして訳文を作っていいのか、芝居の翻訳では、絶えず問われてしまいそうですね。)

たとえば三島由紀夫の近代能楽集は、設定だけじゃなく台詞も全部現代に置き換えているわけですが、オペラの「読み替え」は台詞がそのままなので、いってみれば、三島版「卒塔婆小町」の設定で、現代の公園のベンチや明治の鹿鳴館が舞台なのに、登場人物が能の古語を(しかもしばしば七五調で)しゃべってる、みたいなものですね。

だから「読み替え」なんて中途半端にやっちゃだめなんだ、が保守派の主張かと思いますが、ひょっとすると、事態はもっと抜き差しならないのかも知れない。

実際に劇場でこういう出し物を制作している関係者が、こうした問題に気づいていないはずがないですから、「それでも敢えてやっている」と考えるべきなのかもしれない。そしてこうならざるをえない、という事態を隠さずそのまま舞台に上げてしまったほうが、変に取り繕うより誠実だろう、と考えているのかもしれない。

つまり彼らは、「こうすればオペラをすっきり現代劇に変換できます」とお手軽かつ楽天的にオペラをリニューアルしているわけではなくて、少なくとも台詞や音楽のスタイルを了解できる人(学者インテリや劇場関係者はそうでしょう)にとっては、耳から古めかしいものが入ってくると同時に目から新しいものが入ってくる体験なわけで、しかしながら、オペラは今はもうそのように引き裂かれたものでしかありえないと覚悟を決めてしまっているのではないか。

「もはやオペラは、過去のノスタルジーに浸ろうとしても、それを幸福に実現できる条件すらなくなっている。だったら発想を変えて、劇場という場所は、古さと新しさが、どこでどう切れたり、つながったりしているのか、痛々しい裂け目を傲然と見つめところなのだ、と考えるしかないんじゃない」

という感じ。「歴史意識」の行き着く先ですね。

そこまで台本や音楽の歴史性に敏感ではない者(日本人の多くはそうだと思うし、私も台詞の細部についてそこまで実感としてはわからない)は、オペラの見た目がすっかり若返って楽しい、と言えてしまえるわけですが、今起きているのは、「読み込み」をとことんやると、現在と過去がぱっくり割れてつながらないところまでもが見えちゃって、だから、どうしても「読み替わる」、まあ、これはそういうものだよねえ、という光景なのかもしれませんね。古楽・ピリオドアプローチ(またの名をヒップ HIP)もそうなってますし。)