グスタフ・マーラーの演技指導

僕は、彼女を音楽的に鍛えあげたのと同じように、鏡の前で、身振りや動作をいちいち勉強させた。動きの少ない平静な歩き方を身につけさせるために、僕は彼女に、傘やマフなど何も持たずに、通りを同じ歩調で姿勢正しく散歩させ、朝夕は家で体操をさせるようにした。(ナターリエ・バウアー=レヒナー著、高野茂訳『グルタフ・マーラーの思い出』音楽之友社、401頁)

ヴィオラ奏者のナタリエ・バウアー=レヒナーは、アルマと結婚する前の10年間、いわゆる角笛交響曲を書いていた時期のマーラーとつきあいがあり(家族同然の親密な女友達、という言い方が穏当かと思いますが、お互いの関係は彼女の日記も私的な部分を伏せて公開されているのでわからない)、回想録には自作についてのマーラー自身のかなり踏み込んだ発言(とされるもの)がたくさん入っていて、マーラー論でよく引用されますが、

必要があって読み返してみたら、本の後半にはウィーンでのオペラ指揮者としての仕事ぶりも具体的に色々書いてありますね。着任早々舞台装置や演出に介入したようで、バウアー=レヒナーは、「魔笛」のあそこをこうやって、「オランダ人」の幕切れをこうやった、と具体的に書いている。

(当時ウィーンの劇場にはピットの指揮台のところに舞台監督への直通電話が既にあったらしき記述があり、舞台の高さと奥行き、装置と衣装の色彩を強く意識する演出をしていたようで、マーラーによるオペラの刷新は、彼個人の才覚というより、照明の改良など新しい技術を導入・活用してなされていたのではないかと思えますね。このあたりのオペラ指揮者としてのマーラーの業績については、きっと既にちゃんとした研究があるのでしょうが。)

で、最初に引用したのは、アンナ・フォン・ミルデンブルクに芝居の基本を仕込んだのはオレだ、とマーラーが語っている箇所ですが、

ハンブルク時代に、マーラーはこの新人歌手に惚れ込んで恋愛沙汰がスキャンダルになったとも伝えられていますから、元カノですよね。ワーグナー歌手として成功したウィーンの有名人だとはいえ、元カノとの思い出話を、もう一人の親しい女性に自慢して、自慢されたほうの彼女も彼女で、マーラー様のありがたいお言葉として、それをこうやって日記に記録しているわけで、いったいどういう人間関係なのか。

有り体に言えば、カリスマ音楽家の周囲に、彼を崇拝する何人もの女性がいる光景ですよね。

「そんな風に調子に乗ってるから、サークル・クラッシャー系の才女アルマに引っかかって、あることないこと吹聴されるわ、浮気はされるわ、辛い晩年を過ごすことになるのじゃ、自業自得!」と思ってしまいますが(笑)、

オペラ歌手の定型的なジェスチャーをマーラーが嫌って、ただ単に歩くことからはじめさせた、というのは、演技指導として、今読んでも、正しい感じがしますね。(当時の扇雀・現坂田藤十郎に、腰が据わるようにひたすら歩く稽古をさせたという武智鉄二のご自慢のエピソードを思わせる。)マーラー自身がどこでそういう芝居の基礎を身につけたのか、劇場のたたき上げというだけでなく、同時代の演劇の動向にも関心を持っていたのでしょうか。

で、ミルデンブルクの録音は、唯一、これしか残っていないそうで、ウェーバーのオベロンですが、清潔な歌い方ですね。マーラー仕込みの演技がどういうものだったのか、動いている姿が見たかった。

(マーラーはハンブルクの前のブダペストのさらに前のライプヒチ時代にウェーバー(Carl Maria von Weber 1786-1826)の孫カール・マリア(Karl Maria Alexander Eduard von Weber 1849-1897、祖父の名を継いでいるので、綴りをドイツ風にKarlにしたり、軍人だったので階級名付きで「ウェーバー大尉」と呼んで誤解をさける書き方がされるみたい)の妻マリオン・マチルデ(Marion Mathilde 1857-1931 旧姓 Schwabe)と恋に落ちて、その頃のこともバウアー=レヒナーに話していたようなので、バウアー=レヒナーが本当に全部マーラーから聞いたままを書いているのだとしたら、ますますもって、マーラーとはどういう人だったのかと思ってしまいますが……、バウアー=レヒナーのほうも、こうしてマーラーを崇拝する態度と、第一次世界大戦中に投獄されてしまうような後年のアクティヴィストぶりが、彼女のなかでどうバランスを取っていたのか……。彼女が綴るマーラーの姿は、美化・神格化されているような気がするのですけれど。)

[余談ですが、作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバーの妻は元ソプラノ歌手の Karoline (旧姓 Brandt)で、息子 Max Maria von Weber (1822-1881、鉄道技師で父の伝記をまとめた)の子供は、長女が Maria Karoline、次女が Karoline Mariaで、長男が上記の Karl Maria Alexander Eduard。マーラーに「三人のピント」の補作を依頼した人物です。

先祖の名前を無理矢理使い回して継承するのがマックス・マリアの子孫たちの伝統のようで(ちなみにウェーバー家は貴族ではなく、von Weber とか Freiherr von Weber とか勝手に名乗っていただけみたい)、作曲家の孫 Karl Maria と Marion Mathilde の間に生まれた女の子は母の名をもらって Mathilde von Weber(1881-1956)。この曾孫の Mathilde と、その甥に当たるらしい曾々孫 Hans-Jürgen von Weber (1910-2002)がウェーバーの遺産をベルリンの国立図書館に寄託したことで、ようやく作曲者の死後100年以上経ってから、ウェーバーに関する研究は本格的に動き出す条件が整った。

バウアー=レヒナーの日記も、遺族の意向で出版をめぐって色々ややこしかったようですが、19世紀以後の音楽家は、すでに生前から音楽(作品)が資産になり得ることを意識しており、その相続問題にプライバシーも絡みますから(成功した作曲家の子孫は「いい家」として存続していることが多くてガードが固い)、伝記的なことを明らかにしようとすると、18世紀までの音楽家の場合とは違う困難がありそうですね。]