これが「東京趣味」だ!

なんか、どうでもよくなってきた(笑)。

オペラが死んだ日:ルネ・クレール/エリック・サティ「幕間」 - 仕事の日記(はてな)

と書いたからといって、「実際には「○○についてはしゃべるな。黙れ」と言外に主張している」(https://twitter.com/smasuda/status/507183186854436864)わけではないのは当然ですが、

(というより、増田くんのこの書き込みは、実際のところ、誰のどういう発言に対するエアリプなのだろう? 全共闘の頃だったら、「○○なんてどうでもいい」と交渉相手の学識を全否定しながら、活動家の学生が教授をつるしあげる、なんて光景があったかもしれないから、まっとうな社会人になって今や管理職に収まっている元活動家の爺さんが、同じ論法で会議を牛耳ろうとすることがあり得なくはないかもしれない、と想像したりはするけれど、そんな恫喝は実体がないのだから受け流せばいいのだ)

三輪眞弘「59049年カウンター」での舞台上の10人の行動を「彼らの演技」という言葉遣いで論評した文章はこれ。

http://concertdiary.blog118.fc2.com/blog-entry-1988.html

リンク先の文章は、室井尚さんの名前を挙げているので、室井さんがこの作品の稽古から立ち会って書いたブログ記事(http://tanshin.cocolog-nifty.com/tanshin/2014/08/59049210-4d50.html)を読んだうえでの発言だとわかります。

だとすれば、「桁人と呼ばれる10人のパフォーマーは年をカウントしている」と了解しているはずで、

ということは、あのとき私たちが目撃した舞台上の10人が、他のことをやる余裕なしに、ひたすら、指定された算法で計算していたのだと承知しながら、なおかつそれを「演技」と呼んでいるわけで、いったい何をどう考えているのか、私には、まったく理解できない。

コロシアムで襲いかかるライオンから必死に逃げようとする奴隷たちの姿を見て、「今日の奴隷の演技は素晴らしい」と言うか、という話だ。皇帝ネロなら言いそうだが……。

三輪さんは、敢えて、そのように残酷なことを言わせよう言わせよう、と観客を挑発しているわけだけれど、だったらなおさら、あっさり屈服して「演技」なんて言ったらゲームセットじゃないですかいな、と思うわけです。

ということで、これ自体はしょーもない話です。

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あと、室井さんがブログに埋め込んでいるYouTubeのシュトックハウゼン全集の「歴年」(いわば公式盤ですよね?)を聴くと、シュトックハウゼンとその仲間たちは、別にこの作品で、(例えばブーレーズ一派のような)精緻で精巧なテクスチュアみたいのを求めているわけではないのがわかる。立て付けはかっちりしているけれど、ハンドメイドの家具みたいな感触ですよね。

このあたりの、美麗にサウンドを磨き上げる“東京趣味”から外れる種類の音楽と、この先良好につきあっていく準備がわたしたちの側にあるのか。私には、そこが気になります。

(ある種の「現代音楽」は、ケージやミニマル・ミュージックもその傾向があると思いますけれど、プレイヤーに奇っ怪な規則・レギュレーションを課すことで、クラシック音楽的な意味での美しい完成度から外れた音楽を作ろうとしていたと思うのです。でも、今どきのニッポンのプロの音楽家は、どのようなレギュレーションを課されても、真面目に徹底的に練習して、絶対に「きれいな音」を出し続けようとするし、それができるくらいトレーニングの精度が高くなっている。

「上手にしか演奏できない」

というのは、歌手がオペラの舞台で常にきれいな声で歌いあげてしまうのと同じくらい、ニッポンのクラシック音楽の重篤な「症状」ですよね。成果主義の病と、ちょっと似ているわけですが。

http://www.classicajapan.com/wn/2014/09/011438.html

オヤジギャグからいかに逃げるか、お見事!と思いつつ、「精緻なテクスチャー」は、たぶん、そのオヤジの特性というより、今回の上手すぎるプレイヤーたちの演奏力が作品を「濾過」してしまった結果のような気がします。)

[追記]

三輪眞弘の新作は字幕がほしかった。

山田治生 on Twitter: "2005年の「東京の夏」のシュトックハウゼン臨席による「光の日曜日」第3場@アートスフィアのときは会場の新興宗教的雰囲気にイラッとしたが、昨日と3日前の「歴年」(雅楽版と洋楽版)@サントリーホールではそんなことはなかった。良くも悪くも。三輪眞弘の新作は字幕がほしかった。"

形としては、個人個人が思い思いに「自分の感想」を述べている自由な世界(ニッポンはいい国!)なのだけれど、それぞれを足し合わせると、

  • 舞台の上は現実と切り離された「演技空間」であり、
  • 優れた演技者は、より精緻な「高み」をひたすらめざす。

という、まるで高野連が球児に求める建前の理念みたいなものが浮かび上がる。「東京趣味」の完成である。

そしてそこに、

  • パフォーマンスの「意味」は曇りなく明快に客席に「伝わる」ことが望ましい。(アーチストの皆さん、「国民の知る権利」に応えてください、恐縮です! by 梨元勝)

というのが加わると、すべてはマスメディアに乗ってはじめて換金できるのじゃ、という20世紀型メディア・イベントの姿が浮かび上がってきたりする。

それと祝詞のように詠み上げられる歌詞がわからない。字幕を出してほしいという話には、三輪さんは絶対にそれはしたくない、テキストから意味を読み取るのではなくて、たとえ分からなくても音を聞いて欲しいからという意見でした。

三輪眞弘「59049年カウンター―2人の詠人、10人の桁人と音具を奏でる傍観者たちのための―」について: 短信

三輪さんは、字幕を「絶対したくない」と強く拒否したらしい。

実演を聴いている最中も、私は、字幕を敢えて出していないんだろうな、と思った。当然そういうことになるだろう、くらいにはっきりした意志であっておかしくない。

テクストの意味より音が重要だ、ということだけでなく、三輪さんのように「メディア」を厳密・敏感に考えているアーチストの場合、テクストを読み上げる「声」を会場に響かせることと、そこで読み上げられている紙の上の文字列をどのように処理するか、ということは、まったく別のことだろうと思うし、この作品では、そもそもテクストが副次的だったらしいことがプログラムの作者の文章でも示唆されている。

それに、「声」がどのような文字列に対応するか、そこに重きを置いていないことは、読み上げられた紙片が、毎回、ポーンと投げ上げられて、その紙片が床に散らばっていくのを見ていたら、普通に「わかる」と思うのだが。

[「あの紙片に何が書いてあったんですか」という質問は、観客の領分を越えた下品なパパラッチのやることだろう(笑)。

どうしても、そこに何が書いてあるのか知りたければ、公演中に舞台にあがって、紙を拾って読めばいいじゃん。三輪さんは、観客がそういうふうに舞台に上がって来るのをおそらく「禁止」しないだろう。むしろ、そういう風に自分の作品が観客の欲望を喚起して、観客を何らかの行動に駆り立てたとしたら、作者はそれを喜んだだろうと思う(笑)。

それは、すべてが終わってから、「あれ何が書いてあったんですか」と後出しで質問攻めにしたり、「字幕だしてくださいよぉ」と甘えるのとは、まったく別の行動だ。そしてどちらがよりジャーナリスティックかといえば、当然、「現場で決着をつける」のほうだろう。

現場で決着を着けることができなかったとしたら、それは、ジャーナリストの「負け」なのであって、「私にも花を持たせろ」とあなたがアーチストに迫る権利は、ない(と思う)。ジャーナリストは、権利や身分保障のないところへそれでも入り込んでいくのが商売で、どうやってそれを実現するかが腕の見せ所。普段はそのつもりでお仕事をしていらっしゃるはずなのに、今回に限って、つぶやきをこういう風に利用してアーチストを潰すのは、ちょっと卑怯だと思う。

で、だいいち、曲に使った詩は、全文、プログラムに掲載されてたじゃん。それ以上に、いったい何が要るの?]