http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20140904/1409761588
シューマンのピアノ曲「謝肉祭」のことを、古めかしいドイツ語の発音を模してカルナヴァル、と呼ぶ人がいる(ピアニストさんとか)。あと、イタリアンの肉料理はカルノだし、これなら、カンニバリズムとは別の言葉だと、日本語の外来語レヴェルでもはっきりしたかもしれませんね。
あまりスマートではない戦前風の外来語表記が、ときには役に立つことがあるのかもしれない。
ドン・カルロス―スペインの太子 (岩波文庫 赤 410-4)
- 作者: シルレル,佐藤通次
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1955/01/05
- メディア: 文庫
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オペラの原作戯曲を読むのが面白くなってきて、今はシルレルを集めつつある。ギョエテに比べて台詞がくどいけれど、「手紙」には他人に見られてはまずい秘密が書いてある、という設定で、それをやったり取ったりするのは、喜劇のようにも思えてしまいますが、そういえば、昔のお芝居で「手紙」は重要なアイテムだったんだろうなあ、と今さらのように思う。(オペラにも手紙が時々出てくる。)
他人のケータイをのぞく、というのは、舞台上で面白く演出できるものなのだろうか。というより、個人の「内面」は舞台上に可視化できないものだからこそ、それを示唆するアイテムに意味が生まれる、あるいは、誰かとの対話ではない独白(本来は声にだして言わないはずの)がドラマの決定的な瞬間になる(オペラだったらここが見せ場のアリアになる、2時間サスペンスドラマだったら日本海の断崖絶壁の上での犯人の告白)、という風な組み立て自体が、もう古いか。
(ワーグナーは、モノローグがそのような、現実にはありえない「自分語り」で終わるのが嫌だったから、過去の来歴を長々と説明して、モノローグの背後に大きな物語世界が開ける風にドラマを作りたかったのだと思いますが(だからそこに無数のライトモティーフを投入する)、そもそも個人の長台詞、というのが、今の感覚では耐えがたいですよね。だから最近のオペラ演出家は、モノローグのシーンに、ト書きにはない黙役を登場させて、モノロオーグをダイアローグに変換してしまうわけですが……(クプファーはパルジファルの長台詞をうまく処理するアイデアを見つけたのだろうか)。で、確かに歌い手さんも、そのほうが状況が具体的になって演じやすいメリットがあるのだと思いますが、オペラが生き延びられるかギリギリのところにあることを象徴する事態ではありますね。)
- 作者: 佐々木健一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1994/03
- メディア: 文庫
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