ドイツ語脳が生み出すオペラ

……と書いた先から矛盾するような話だが、

ペーター・コンヴィチュニーが演出をつけている様子を見ていると、どうやら、彼は、トラヴィアータのようなイタリア語のオペラを演出しているときでも、頭のなかにはドイツ語の台詞(たぶん子どもの頃から耳に馴染んでいるドイツ語訳詞の台詞)が流れているみたいなんですよね。

言ってる意味、わかりますかね。

わたしたちより上の世代で、オペラが訳詞で耳になじんでいる人だったら、これに近いことが起きるのかもしれませんが、これはこれでアリかもしれない。

「生きるべきか死ぬべきか……」

という風な日本語でハムレットの台詞が身についている人が、そのままの頭で、To be, or not to be と朗々と英語で芝居をやって、それが色々な国のお客さんを喜ばせる、ということがあるとしたら、それは素晴らしいことだ。

小澤征爾が、いつまでたっても上手くならない、と言われているらしい英語やドイツ語で平気で仕事しちゃうのは、ややこれに近いのかもしれない。

そしてこれは、「「演奏」という語を欧米諸語に訳すとしたら」みたいな時空の歪みに迷い込むのとは全く別の話です。

モラヴィアの言葉なんで全然わからなくてもヤナーチェクのオペラを立派に演出できちゃう、とかいうことは、起こりうる。

(自分ではまったく言葉がわかってないのに、あのオッサンは、「魔笛」の日本語の台詞回しを細かく演出できちゃったしね。)

心に浮かんだ思いをそのまま素直に口にするナチュラルな私、みたいのは、そういう状態から、実は一番遠いところにいるんだと思う。

今さら、言うまでもない当たり前の話だが。

[たぶん、ちゃんと考えようとすると、事物を認識するモードと、自らが参与する行為・行動のモードでは物事の配置が変わってしまわざるを得なくて、しかしそれはそういうものなのだから、無理に「大統一理論」をでっちあげようとするとおかしなことになる、とか、そういった話なのだと思うけれど、こういう話は、どこかしら数学に似てきて、アキレスと亀のパラドクスが、ちょうどそんな話になる、というような説明を最近読んだ気がするのだけれど、違ったかな。

大久保賢は、たぶん行為の哲学とか、そのあたりの若い頃勉強したあたりから既に色々間違った風な理解が積み重なっていて、間違いを別の間違いで補強する、というようなことをやりすぎて、何が何やらぐちゃぐちゃになって破綻してるんだと思うけど、違う。

まったく余計なお世話だが、「自分が一人前になるまでは結婚しない」みたいな意地を張っているとしか思えず、その種の「意地」だけで間違いの積み重ねの上を突っ走り続けようとしているのだと想像する。それ、絶対成功しないから、結婚とか何とか、自分の身が落ち着くことを優先したほうがいいと思うよ。あなたは、思考の強度で現実を突破できるタイプじゃない。]

哲学入門 (ちくま新書)

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