もうひとつのキャリア・デザイン:モーツァルト&ウェーバー家に「ステージ・パパ」対策を学ぶ

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20140903/p1

↑ここの最後でカール・マリア・フォン・ウェーバーの子孫とマーラーの関係をまとめたついでに、ウェーバー家を遡って、モーツァルトとの関係を整理してみた。

ウェーバー家は、モーツァルトの妻コンスタンツェやカール・マリア・フォン・ウェーバーの曾祖父Hans Georg Weberという人まで遡ることができるようで、二番目の妻Maria(旧姓Reilin)との間にFridolin Weber(1691-1754)が生まれる。

Das Freiburger Stadtarchiv hat in dem Buch „Die Vorfahren Karl Maria von Webers“ durch akribische Nachforschungen diese für dieTalvogtei Zell turbulenten Jahre nachvollzogen und damit auch Zeller Stadtgeschichte geschrieben. Ein Hans Georg Weber, der Urgroßvater Carl Maria von Webers und Constanze Mozarts, heiratete nach dem Tod des Müllers der unteren Mühle Stetten die Witwe. Dieser Verbindung entsprossen 8 Kinder. Die Frau Verstarb nach 21 jähriger Ehe. Aus einer nachfolgenden Ehe mir Maria Reinlin entstammten weitere fünf Kinder. einer der Söhne dieser 13 Kinder war Fridolin Weber.

Stadt Zell im Wiesental | Familie Weber |  

Fridolinは、ラインラントのZell in WiesenthalでSchönau男爵家に出入りして、色々ややこしいことが起きたようで、Eva Maria(旧姓Schlar)との間に生まれた息子たちは、最終的には、自活せざるを得なくなり、いずれも音楽家になった。(Fridolinはヴァイオリンを息子たちに教えていたらしいので、もともと音楽の才覚があったのでしょう。)

Fridolinの長男はFranz Fridolin(1733-1779)。親の名前を継いだので、区別するためにFridolin IIと書かれていたりもするが、マンハイムのバス歌手になり、Maria Cäcilia Cordula(1727-1793、旧姓Stamm)との間に、

  • Josepha(1757-1819、「魔笛」初演で夜の女王を歌ったことで知られる人、初婚でHofer、再婚してMelerとなる)
  • Aloisia(1759/61-1839、結婚してLange)
  • Constanze(1962-1842、Mozartと結婚)
  • Maria Sophie(1963?-1846)

の4姉妹が生まれる。

Fridolinの次男がFranz Anton(1734-1812)。音楽家としての実績はいまいち不詳で、各地を転々としながら一旗揚げたいと画策しつづける人生だったようで、この息子がCarl Mariaなので、ウェーバーはアロイジアやコンスタンツェとは従姉弟の関係。モーツァルトはウェーバーの義理の従兄、ということになる。

(こういう家系を見れば、「von」とか「Freiherr von」と名乗る家柄でないことは明らかですね。)

ただし、Franz Antonは2度結婚していて、このあたりがややこしい。

Franz Antonは最初の妻(不詳)との間に男の子が二人生まれて、上の子は祖父の名をもらってFridolin、下の子はEdmundというらしいのだが、この二人はウィーンでヨゼフ・ハイドンに師事したらしい。滞在先の家主がMarx (Markus) Brennerという人物で、その娘Genovefa(1764-1798)もソプラノ歌手だった。

そしてFrannz Antonは1783年頃、ウィーンの息子たちを訪ねたときにGenovefaと知り合い、3年後1785年に結婚。息子たちともども当時職を得ていたEutinで暮らすようになり、翌1986年にCarl Mariaが生まれる。

(GenovefaはFranz Antonより20歳若い。むしろ息子たちとお似合いなお年頃だと思うのだが、彼らの下宿で知り合って、自分がその娘と結婚しちゃうところが、なんだかなあ、と思う。Eutinの宮廷楽長という地位の力か、彼の人柄か、息子たちがふがいなかったのか……。)

ここで注目したいのは、Franz Antonがウィーンの息子たちを訪ねたとされる1783年は、モーツァルトが当地で活動しはじめた頃だということ。

兄の娘たちもウィーンで活躍しているし、その一人はモーツァルトと駆け落ちめいた結婚をしているわけですから、Franz Antonが知らないはずはないですよね。

Franz Antonは、のちに、Carl Mariaをザルツブルクでミヒャエル・ハイドン、ウィーンでゲオルク・フォーグラーに師事させて、「天才少年」として箔を付けようとするのですが、このあたり、モーツァルトとウェーバーは、単に家系図の上でつながっているという以上に近い世界の人たち、ドイツの貴族・宮廷の周囲を動き回って、どうにか生き延びようとする同業者一族だったんだろうと思います。

ウェーバー家は、祖父の代で地方の貴族とのコネクションが出来て、「これからの成長産業は音楽だ」ということで息子たちがその道に転じたように見える。きっと、ウェーバー家やモーツァルト家だけじゃなく、各地にこういう人たちがいて、お互いが地縁・血縁などでつながっていたんじゃないかと思う。

モーツァルト家の動きを「キャリア教育」と形容する本が出たり、大阪のどっかのホールは、よー知らんけど、この時期のモーツァルトの「飛翔」を特集するようですが(笑)、

ウェーバー家の目線で考えると、モーツァルトは孤高にして不世出の天才というより、同業者の出世頭、うまくやりやがったな、って感じだったんでしょうね。

この時代の力学のなかで、誰が「天才」か、というのは、音楽家自身が決めることというより、宝石を鑑定するように、王侯貴族が上から決めることだったわけですからね。

(で、その後の「市民」や「官僚」は、ちょっと小金が貯まると、かつての王侯貴族のように、シモジモの音楽家を「上から鑑定」してみたい、と成り上がる夢見つづけて、今日に至っている。モーツァルトは、そういう楽しみの格好の話題であり続けているわけだ(笑)。)

[追記]

ベートーヴェンは、そんなモーツァルトの死の直後にウィーンへやって来て、「熊のようだ」と言われた振る舞いで、貴族と「こびへつらい」ではない関係を築こうとしたと言われていますよね。

多少誇張があるとは思いますが、彼はウィーンへ来る前に、ボンではアカデミーから昇格したばかりの新設大学の学生たちとつきあいがあり、フランスの共和主義や反骨の詩人・劇作家シラーのことを彼らから知ったのではないかと思いますし、ロンドンから戻ったハイドン先生の土産話は、公開コンサートがさかんな彼の地への思いを募らせて、旧弊なウィーンを相対化する視点を彼に与えた可能性がある。ウィーンにおけるベートーヴェンの立ち位置は、外国との交流や「グローバル・スタンダード」をこう使え!のお手本みたいなところがあります。

また、ウェーバーのほうはどうなったかというと、母を早くに失い、父と子の二人三脚、事実上、山師の父親にリモートコントロールされるように各地を転々としてシュトゥットガルトの宮廷に取り入ることに成功しますが、ここで父親が公金横領をやらかし、連帯責任ということでウェーバーは多額の借金(賠償金だと思います)を背負ったうえで、国外追放の憂き目に遭う。

(マンハイムの兄(モーツァルトの義父)に比べて、この弟(ウェーバーの実父)は、どうしようもなく自堕落に見えるのですが、「弟キャラ」は、いつの世でもこういうものなのかしら。教えて、大久保賢!(笑))

そして、ウェーバーは、宮廷に寄生する生き方しかできない父親を「切る」んですね。今度は自分の意志でフォーグラーに再入門して、家計や生活を自分できちんと管理して、ということを始めます。現在私たちが知っているウェーバーは、こうして更正・再出発したあとの姿です。

キャリア教育、いうんやったら、上手に宮廷に取り入ったモーツァルトを持ち上げ、「ブラック企業で働く覚悟」(笑)を子どもたちに植え付けるだけじゃなく、その次の世代が、「このままじゃだめだ」と目覚めたときにどう動いたか、合わせて伝えるべきなんじゃないですかね?

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そして一連のウェーバー家の動きのなかに、マンハイムのゲオルク・フォーグラーという音楽家が2回登場します。

一度目は、モーツァルトがマンハイムへ来て、ウェーバー家の姉妹と知り合ったころで、フォーグラーは同地宮廷のご意見番的な存在だったらしく、宮廷がモーツァルトを採用することに強く反対したと言われています。

一般に、モーツァルトの伝記は、このフォーグラーの振る舞いを悪く書きます。天才を理解しない石頭の守旧派だ、というわけです。

(モーツァルトのキャリア教育の本を書いた久保田慶一は、旧著にはっきりそう書いた。)

でも、そうだろうか。

フォーグラーは学究肌の啓蒙主義者で、アフリカまでフィールドワークに行ったりするところはサン=サーンスに百年先駆けていると言えるかもしれません。視野の広い人ですから、父親にリモートコントロールされ続けている「元神童」(「ワンコくん」とか「あんたバカ」とか言われても不思議ではなかろう(笑))など使い物にならない、と考えても無理はない。むしろそれは、良識ある判断だったかもしれないわけです。

事実モーツァルトは、マンハイムでダメ、パリでもダメで、なおかつママが死んじゃって、ようやく「自立」を考えるわけですよね。

だとしたら、マンハイムで中途半端に採用されなかったことが、彼の成長を促したとも言えるんじゃないか。

また、モーツァルトの義理のいとこのカール・マリア・フォン・ウェーバーとフォーグラーの関係も面白くて、

父Franz Antonが息子をウィーンでフォーグラーに弟子入りさせたのは、たぶん、兄のいたマンハイムでの名声を知っていたからだと思いますが、この時期のウェーバーは(かつてのモーツァルトのように)パパにリモートコントロールされていて、フォーグラーの指導も、その効果は大きかったようなのですが期間は短い。パパは、息子を一刻も早く売り出すことしか頭にないわけです。(ウェーバーは、めちゃくちゃ若いのだけれど、ブレスラウの宮廷楽長に赴任します。案の定、長く続かなかったんですけど、それでも、父親の論理とすれば、「箔」が付いたからオッケーだったんだと思います。)

でも、ブレスラウの楽長を短期間で辞めたあとヴュルテンベルクの宮廷にせっかくもぐりこんだのに父親がバカなことをやって、彼の他人頼みな「キャリア・デザイン」(笑)は破綻する。先に述べたように、ウェーバーは父親を「切る」と決めたときに、もう一度、その頃既にマンハイムを引退してダルムシュタットにいたフォーグラーのところへ戻ってきます。

モーツァルトの場合もウェーバーの場合も、彼らが父子の自堕落な縁を切る場面にフォーグラーの啓蒙主義が登場するわけです。

ウェーバー家にとって、フォーグラーは大恩人ですよ!

まあ、学問とか知性というのはそういうものなのだと思いますが。それにしても、啓蒙主義教育は、本当に見事に、「ステージ・パパ」を退治するのに役立ったわけですね。

久保田慶一先生には、今度はそういう話を書いて欲しいなあ。アルテスで是非!

[碇さんと綾波さんのおうちは、あれから24年経って、周りの女性の皆さんがアイパッチとか、女キャプテンとか、めちゃめちゃ素敵に変身したというのに、まだゲンドウくんのリモートコントロールを切ることに成功できないみたいで、家庭問題は本当に大変そうですが(笑)。]