調性刑事・KEN

http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/26064975.html

仮に、長短調機能和声に準拠して書かれた tonal な音楽を「有調」と呼ぶとしたら、tonal vs atonal は「有調」vs「無調」と文字の並びが見栄え良く対称的になり、guilty or not guilty を「有罪か、あるいは無罪か」と議論する陪審員のような感じに見せかけることができるかもしれない。

でも、「not guilty 有罪ではない」 に様々な状態があり、guilty or not guilty が対称的な二者択一ではないように、tonal vs atonal も対称的な二択ではない。

たとえば、大久保賢は modal な音楽に鈍感ではないかと想像するのだが、旋法はいわば民事案件で、「調性刑事」の管轄外になる。ドリアとかフリギアとか、教会は調性を逃れたい人の「駆け込み寺」だったわけだ。

ドビュッシーはあちこち怪しいところへ出入りして、いかにも公安に目を付けられそうに疑わしいけれど、起訴されるには至らないだろう。派手に駆け落ちして仲間内では後ろ指を指されたし、正妻への態度はちょっと酷いものだったようだが……、起訴されないものは、guilty or not guilty を判定できない。

シェーンベルクは作品を発表するたびに guilty で刑事罰を科される「前科○犯」、法律のほうが間違っているんだから何度だってやりますよ、と闘っている感じだが、パリは、せいぜい、逮捕されて拘置所で夜を明かし、訴追されることなく出てくる不良の巣窟という印象がある。

「前科者」にさえならなければ、若いうちに多少やんちゃしたって、就職には問題ない、とタカをくくってスカした感じが背後に透ける(笑)。

ヨーロッパの裁判制度をよく知らないので、おかしな話になっているかもしれないが、そんなことを言えば、そもそも、「調性裁判所」など存在しない。

シェーンベルクがガンガン攻めることができたのは、ウィーンがダメならベルリンへ行く、ベルリンがダメならロスへ行く、とタフに移動して、不退転の玉砕などハナから頭にない人だったからだろう。一方、国家がコンセルヴァトワールのような制度を作って社会に管理・監視の網を張ろうとすると、ルールの隙間でチョロチョロ遊ぶパリの不良みたいのが出てくる。

音楽取調掛みたいな制度を作ったのはいいけれど、これが、逮捕=有罪、「疑わしきは罰す」みたいな風土と野合して、なおかつ、人が土地に縛り付けられ、移動は不可能だと思い込まれてしまっているとしたら、そら、窮屈になるわ。

あらゆるものが、自分には手の届かないほど素晴らしい、と見える幸福な束縛、なのかもしれないが、そのために払う犠牲が大きすぎる。そんな座敷牢のような立ち位置からものを言っても、たぶん誰もついてこないよ。欲張り過ぎ。ひとつかふたつ、諦めて捨てなさい。

ドビュッシーは、ローマ賞を取ることができたり、何故だか知らないけれども女性にもてたり、色々「持ち駒」があったうえでケッタイな大都会の迷路へ潜りこんだのであって、普通の人間が憧れても無理よ。(せめて、東大か東京藝大を抜群の成績で出てないと、ニッポンでは無理よねえ(笑)。)