パブリックスペースのゴミ箱と21世紀オシャレ系都市空間の「紙の文化」

[床屋政談みたいだった文章を全面改稿]

ゴミをみつけたら拾って捨てる、を本当に励行している人なら既にご存じかと思いますが、今世紀に入って、日本の都会のパブリックな場所から「ゴミ箱」の数がものすごい勢いで減っている。

(たぶん、テロ対策とか大義名分をつけた上でのコストカットだと思う。)

鉄道駅のように人通りの多いところでも、それぞれのプラットフォームにゴミ箱が1つか2つで、コーヒーの缶を捨てるためだけにホームの端から端まで(は大げさだけどそれでもかなりの距離を)歩かないといけなかったりする。

みんな、どうしているのだろう。すごく不思議なのだが、店と家以外では決してゴミを出さない、というのが21世紀の日本のマナー、というわけではないと思うのだけれど。

(具体的に書けば、びわ湖ホールはゴミ箱が充実しており、10日間朝から夕方まで快適に「滞在」できる。兵庫芸文は、裏の出演者周りが充実している一方、一般のお客さんのためのスペースは、見た目がとても美しいけれどもゴミ箱が少ない。そして民間のホールは、後者に近い状態であることが多い。

鉄道駅だと、近鉄はゴミ箱が充実していて、阪急は、数は少ないのだけれど、使いやすい場所にピンポイントで設置してあり、案外不便を感じさせない。JRは、大阪駅など、長距離路線以外のホームからゴミ箱が減って、リニューアル後はプラットホームにベンチもない。「立ってなさい」と怒られてるような感じがする(笑)。)

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「劇場・音楽堂等」(←劇場法用語(笑))は、しばしば大量のチラシを入場者に配布するわけだが、あの大量の紙は、全員が家に持ち帰って大切に保存してくださっていると信じています、という建前なのだろうか。

それってなんだか、日本の新聞社の悪名高い「押し紙」と構造が似ているように思うのだが……。

ゴミ箱の不在は、利用者が「これは不要である、用済みである」と公共の場所で自らの意見・態度を表明する権利を不当に制限しているのではないか、と言ってみたりして……。

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チラシは「撒く」という動詞を使いますが、撒かれたチラシが広場や街路に散乱している、というような情景を、私たちは、(少なくともクラシックコンサートでは)実際にはほぼ見たことないじゃないですか。それは、チラシさんにとって、シアワセな生き方なのだろうかってことでもあると思うんですよね。

少し前まで、クラシックコンサートの帰りには、会場周辺のゴミ箱が捨てられたチラシで一杯になっているのを見るのが当たり前だった気がするのだけれど……。

(コンヴィチュニーの「ドン・カルロス」の異端審問の場面は、馬鹿王子カルロスの連れてきたオランダ派が、チラシを紙吹雪のように客席に「撒いた」。あの人の脇役まですべてを生かす姿勢はほぼ狂気の域にまで達して、チラシさんにまで活躍の場を与えてしまったわけですね。(そしてコンヴィチュニーのせいで、ポーサはロンゲで近眼のアンチャンだ、というキャラ設定以外、もはや考えられなくなってしまった(笑)。)

あれは、紙を破る、小物を相手に向かって投げる、というようなミニマルなアクションでドラマを動かす20世紀的演出術が大技に発展した場面でもあると言えるか。「投げること」「破ること」「捨てること」とか言い出すと、蓮實重彦の映画論みたいになりそうですが。)

配布された紙がどのように使用され、どのように「死」を迎えるか。紙の「死に場所」は、家庭のリサイクルゴミの回収という場に一元化されるのが本当に最良なのか。パブリックスペースにおけるゴミ箱問題は、そのように考えると、「紙の文化」が20世紀大衆社会とは違う段階を迎えつつある他人事ではない兆候だったりするのかもしれませんなあ。

私たちの「快適な生活」は、人の死のみならず、「紙の死」をも視界から隠そうとしているのかもしれない……。

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メディアとしての紙の文化史

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病院で死ぬということ [VHS]

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先日こういう映画があるよと教えてもらいましたが(教えてくれたのは某若手女性オペラ演出家さん←ちょっと自慢)、チラシさんにとっては、どこで死ぬのがシアワセなんでしょうねえ。

(私は、そんなことを気にせず、紙の文字を読んで腹が立てば、これからも遠慮なくビリビリ破りますよ(笑)。)