情報量

無愛想な意見で悪いけど、たとえば、イタリア・オペラと能や歌舞伎の台本を比較したとき、欧米語と日本語に単位時間当たりの情報量は有意の差があるのだろうか。

あるいは、19世紀の音楽雑誌の作品評と徳川時代の歌舞伎の評判記で、紙面の単位面積当たりの情報量がそれほど違っているだろうか。

現在の大学や学会での口頭でのディスカッションの情報量が、日本での場合と欧米語(主に英語?)の場合で有意に差が出ているとしたら、口頭でのディスカッションが効率的に進むことにターゲットを絞った言語運用の最適化の努力がなされているか、そこに意義を見出しているかどうか、という言語を取り巻く環境の差が大きいのではないだろうか。

クール・ジャパンじゃないけれど、日本語文化圏では、マンガ的・ゲーム的なエンターテインメントが幅をきかせているから、単位面積当たりの「視覚情報」の効率化・最適化のインセンティヴが異常に高くなっている、というような話じゃないかと思う。

知的な情報交換においても、たとえば、どこぞのソルフェージュ教師であるとか、へっぽこ音楽評論家であるとか、を遠慮なくふるい落として、「理解できないのはお前がバカだからだ」と平気で話を進めることが是認されると割り切ってしまえば、小鍛冶邦隆のように薄い本に音楽理論の情報を詰め込む日本語の書物を作ることはできる。

そしてそのような日本語の書物・書き言葉が「異端的」に見えている環境が問題なのであって、要するに、「学者は普通じゃない日本語を遠慮なく使っていいんだ」ということにしたら、日本語で情報量を高めることはできると思う。クオリティペーパーと大衆紙が全く別の文体で書かれているのに似た状況を日本語で生みだしちゃえばいいわけよ。

同様に、オペラの台本も、「これ以上チューンナップすると観客がついてこれないだろうな」というところでブレーキを踏んでしまうから速度が出ないんで、何かを捨ててアクセルを踏み込めばいいだけの話だと思う。

難解さへ陥ることなく時間をショートカットできる言葉遣いを真剣に工夫しているのは、今の日本語の文化環境だと、(文)学者じゃなく、通訳・翻訳者(しかも文学や学術書の訳者ではなく、ビジネスとかの同時通訳の人)じゃないかしら。

あるいは、スポーツの監督・コーチに影のようにくっついてる通訳さんとか。(通訳がまごついてるあいだに相手にゴールを決められちゃったら商売にならんのだから。)