日本語のライブラリ不足?

欧米語と日本語のどっちが効率的か、という話は、一昔前のウィンドウズvsマックのパソコン宗教戦争と同じことで、まったくくだらないわけだが、思い起こせば、学生の頃は、ずっと、「音楽の話は英語やドイツ語だったら、手早く片付くのになあ」と思っていたような記憶がある。

わかってみれば簡単なことで、音楽について作文するときに、音楽の周辺の事柄を記述するときの言葉や発想や話の組み立ての手順と、音楽について記述するときのそれ(しばしば「専門用語」とか「専門の知識」と言われる)が、そもそもコトバのレヴェルでかっきりわかれ過ぎていて、シームレスにつなげられずに苦労していたのだと思う。

最近、古い吹奏楽雑誌を読んでいると、「ああ、これこれ、こんな風になっちゃうんだよね」とそのことを思い出した。

文章が、音楽の記述、なるものに入ったところで、そこまでの話は全部打ち止めになって、「さあ、ここからは音楽です」みたいにコトバが身構えて、ガチガチになるんだよね。

そういう旧式の言語ライブラリは、捨てても特段の問題は生じない、と腹をくくればそれで解決するのだが、世間の動向を見ていると、どうやらそうではなくて、音楽について具体的に記述・言及する場面を可能な限り減らすことで切り抜けようとする人たちのほうが多いらしい。避ければ避けるほど不自然になるんだけどね。

日本語のスペックやライブラリを入れ替えちゃえばいいんですよ。

音楽だけの話ではなく、色々な分野で、この種の捨てるに捨てられない旧式ライブラリが日本語を不自由にしていたりするような……。そしてたとえば、その種のがんじがらめで身動きできない状態に開き直ろうとするから、旧式言語で語れること以外はこの世に存在しないことにする、みたいな文章を生産する生物(大久保賢とか?)が発生してしまうのだったりするような……。

そしてそういうボトルネックを放置したままベンチマークを取ったら、そら、日本語は「遅い」と判定されるわな。CPUの問題だと決まったわけじゃないのにね。

(パソコンも人間の脳味噌も、CPUの速度だけを競っていたら、早晩頭打ちなのは変わらんはずだと思うのだけど。人間は、部品の入れ替えができないのだから、なおさら、そうだろう。)

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ただし、理論上速度が出ないはずはない、といくらいっても、実際に今現在のスペックでは遅すぎる、ということになったら見捨てられる可能性が高いのも否定できず……、グローバル・スタンダードとか、一度はホンモノに触れとかないと一人前にはなれないよ、というのも一面の真実で、やせ我慢ばっかりしてると身体に悪い、というのも言える。

外国に出たことのない学者って、どんなに屁理屈で言い訳しても、やっぱり、ありえへんよな。

本人がぐずぐず言い訳ばっかりするようなら、無理にでも放り出すor引っ張り出すべし。国内でグズグズと色んなものを拗らせる人間が溜まるようでは、「国益を損なう」。