紙媒体とインターネット、本当に劇的に違うの?

以前とりあえず原物のコピーだけ取ってあとで読もうと思っていた某業界紙の古い記事の山が手元にある。

どの号のどこにどの記事が出ているか、書誌作りからやらないといけないから、結構な作業になりそうだなあと思ってパソコンを開くと、既に書誌をリストアップしたファイルがあった。白石くんが珍しくマメに資料を整理してくれていたようだ。感謝!

で、比較的知られたことかと思いますが、昔の雑誌や新聞は、今の感覚で読むと、かなり言いたい放題に見えるんですよね。今なら炎上しそうなことが平気で書いてあったりする。炎上させようにもリアクションを活字化するルートがないからもみ消されたのか、直接面と向かって言い合ったり、電話や手紙で応酬したのか。あるいは、紙媒体を隅から隅まで読むような人が同時代にはほとんどいなかったのか……。

たぶん、どの推測も少しずつ当たっていて、さらに丹念に残った資料の調査範囲を広げれば、特定の媒体上では無風であっても、それと連動して他のところで色々なことが起きているケースがあったりするのだと思う。(実際その一端が徐々に見えてきたりすることがある。)

そうして、徐々に物事の概要が見えてくると、ネットの出現で何かが劇的に変わった、という論法は、そう簡単に成り立たないだろうなあと思えてくる。何がどの媒体に出るか、物事の痕跡の現れ方が変わっているからといって、物事自体に変化があったと即断することはできない。

当たり前だが。

(そしてこういう風な一種の「唯物論」で物事と媒体のごちゃごちゃした関係にゴリゴリ分け入る作業をはじめると、「わたしにとって、歴史研究は時間さえかければいつでもできる分野に属する」とうそぶく美学者に、「バーカ、お前、なんもわかってない、どーせ文献読んで書いてあることをきれいに順番に並べたら、はーい歴史の出来上がり、程度にしか思ってないだろう、それ、全然違うよ」と言いたくなったりするわけだが、この最後の段落は空ぶかし気味の一種のシャドウボクシングなので、閲覧者諸氏には、全力でスルーされたし。)

山田耕筰: 作るのではなく生む (ミネルヴァ日本評伝選)

山田耕筰: 作るのではなく生む (ミネルヴァ日本評伝選)

資料を掘れば掘るほど、何を書くことができて、何を書くことができないか、悩ましいわけですな。でも、そんなこんなを含めて、山田耕筰は「生産力」のある人だったようですね。本格的に「全集」を編纂する意味のありそうな日本の作曲家は、他にはちょっと見当たらない。