シンフォニックバンド続報

やはり大筋としては、音楽之友社が、北米出版社で Symphonic Band と表記されているようなコンサート用ハイグレード吹奏楽曲を日本でもやりたいと考えた、というストーリーになりそうですね。(秋山紀夫はバンドジャーナル創刊の頃からずっと北米流の紹介者であり続けて、1970年代初めに音友がまず英語表記で for Symphonic Band を使うようになり、1980年代の終わりになってようやく、日本語・カタカナのシンフォニックバンドの語が登場するので、息の長い話ということになりそうです。)

兼田敏の作品がJASRACに中黒ありの「シンフォニック・バンド」で登録されている、というのも興味深いです。(登録の時期等がどうなっているのかは気になりますが。)

そして兼田敏自身は中黒ありを望んでいたとしても、それだけでなく1973年の段階で、川崎優は(英語表記を for Symphonic Band としているのに)日本語を「吹奏楽のための」として、兼田敏だけが「シンフォニック[・]バンドのための」としていること、二人のこの言葉についてのこの時点での温度差があったように見える点は、音楽之友社の独自表記だけでは説明できないように思います。微妙な問題ですし、作曲家・出版社がこの時点でどこまで厳密に表記のことを考えていたのか、はっきりしないので、これだけでは結論は出せませんが。

元記事:

(ちなみにバンド・ジャーナルの1959年創刊当時の号には「学校吹奏楽」という言葉が出ており、「学校」(の課外活動)が、マーチを野外演奏する軍楽隊・鼓笛隊と自分たちのやりたいことを差別化していく拠点として意識されていたことがわかります。端的に言ってしまえば、この雑誌は「学校吹奏楽」を推し進める指導者たちのための雑誌として創刊されたように見えますね。プレイヤー(生徒)が読む雑誌に模様替えされたのは1977年で、戦後日本の「軍楽隊ではない吹奏楽」は、ほぼ1980年以前と以後で2つに分かれて、指導者たちが関係各方面と連携しながら様々な条件を整えていった時代と、準備が整っていよいよプレイヤーが主役として音楽を楽しむ姿が前面に出てくる時代に分けて考えた方がいいような印象を私は抱いています。中橋さんの番組の前身、NHK-FMで秋山紀夫の「ブラスのひびき」がスタートしたのも1980年頃ですよね、たしか。)