秒の実在

開始17分あたりで時計の話になり、ベートーヴェンは耳が聞こえなくなったけれど、時計の振り子によって1秒(BPM=60)を「見る」ことができたはずだ、とか、当時はおよそメカニカル・サウンドのない時代で、時計の「秒」というのは、当時ほぼ唯一のメカニカル・サウンドだったはず。だからBPM=60は特別なテンポなんだ、という風に話が進む。

古典的な西洋音楽で「調」が実在しているかのように扱われている(シンフォニーなどの出だしで「ド〜〜ン」と鳴った音がその音楽の主音(ド)なのであって、そこを起点に出来上がるドレミの音階がその作品の土俵になる)というのと似たところもあり、ちょっと違うところもある話ではありますが、機械時計の時代におけるBPM=60は特別なんだ、というのは面白い視点だと思う。

調性音楽の時代におけるテンポは、どのように設定してもいい無色透明・ニュートラルな「無調」ではなかったんじゃないか、ということを示唆していますよね。

で、おそらくこれは、ノリントンのテンポ感(リズム感)が「時計的」なのと無関係じゃなさそうに思う。あの人の演奏は、テンポが「時計的」だから、どんな変なことが起きても安心して楽しめる。

(ダンスってなことも言うけど、たぶん彼のテンポ感、リズム感でバレエは踊れないと思う。跳躍したり歩いたり、というビートの多様性は、あの人の場合、あくまで音の質感を変えるだけで、「時計のテンポ」は揺るがない。だからメヌエット楽章になると、モダン過ぎる違和感が募る。シンフォニーに舞曲楽章が混ざっているのは、舞曲楽章で「時計」とは別の“とき”に移行することによって、シンフォニーが宮廷のディヴェルティスマンだった痕跡を様式化しているのだと私には思えるのだが、アングロサクソンのノリントンには、そういう大陸的な感性が欠けている。)

そして当時と同じように現代人もまた「時計(BPM=60)」を知っている。あの人の音楽は、ベートーヴェンも現代人も同じ「時計」(BPM=60)を使用しているブラザーなのだ、という、いわば「時計のヒューマニズム」だと思う。

ただ、それは限界でもあって、あのジイサンは punctual な紳士の世界の外には決して出ない、ということかもしれない。

(ノリントンがN響とうまくやれるのも punctual だからだと思うし……、そういえばN響と相性抜群だったデュトワも、身振りはダイナミックだけれどもテンポ感は punctual でしたよね。

私はノリントンを初めて聴いたときに、シューベルトのグレートのCDをドイツで買ったんだったと記憶しますが、これは古楽というよりストップウォッチだ、と思ったんですよね。で、それはリハーサルにメトロノームを持ち込んだとして悪名高いショルティとは違う。ショルティのメトロノームは、現場の荒くれ者に規律をもたらし、巨大な近代ビルを建造する手段(ロンドンとウィーンとシカゴに、寸分違わぬ設計で同等に快適な三つ星ホテルのチェーン店を経営するような)だけれど、ノリントンの「時計」は、世界を飛行機で飛び回り、場合によっては18世紀と20世紀をタイムトラベルしても「時差」が生じないスマートでフラットなスケジュール管理のツールという感じがする。どっちもモダンな「虚構・幻想」ではあるけれど、建築業者風にその幻想の時空を作る人と、ビジネスマン風にその幻想の時空を活用する人の違いがある。)

20年くらいたっぷり楽しませてくれたんで、恩を仇で返すようなことを言ってはいけないかもしれないけれど、コンヴィチュニーの「劇場共和国」の可能性と限界が見えてしまうようなすれっからしの視点に立つと、ノリントンの「時計のヒューマニズム」も、そろそろ手の内が見えてきちゃいつつあるかなあ、と思ったりする。

(そういえば、全面デジタル化のせいで、テレビの受像器に映し出される時刻はデコードに伴う遅延の分遅れてしまって、もはやテレビが「時計代わり」にはならなくなっちゃいましたが、別に1秒の間隔が歪むわけではないので、それはまた別の話。

ただし、デジタル映像&音声のデコードに伴う「遅延」は色々困ったこともあって、例えば、ロビーにデジタルの高解像度モニターを置いている音楽堂がありますが、あそこから流れる音声は、会場から漏れてくる音や、アナログでモニタリングしている音より明白の遅れるので、ロビーに設置された複数のモニターの音がお互いにズレちゃって不気味なことになっていたりしますよね。そういうのに遭遇すると、色々大変なんだなあと思う。どこのホールとは言わないし、遅刻してロビーで音を聞く状況になる少数者以外は気づかないことだとは思うけれど、スタッフ・裏方がこの状態で日常的に業務を続けて平気である音楽堂というのは、ちょっとスゴイ職場環境だなあ、と思わないこともない。わたしは、その空間に足を踏み入れると、「とき」が混濁しているように感じて生理的に辛いのだが(笑)。

その方面には疎いですが、映像の精細美麗を重視するときと、オーディオのリアルタイム処理を優先するときでは、機械類のシステムの組み方が違ってきて、そのあたりに設備の設計思想が現れたりするものだったりするんだろうと思う。

「とき」というのは、最新テクノロジーによっても完全制御できているのか定かではないやっかいな現象でございます。そのやっかいな現象を素手で取り扱う非ホワイトカラー的な技芸を保持するところが、音楽家の強みでもあるわけですが。)

[で、こういう風に虚構的・幻想的な“とき”に強く反応してしまったのは、リンク先のYouTube映像が、アットホームな感じを醸し出してはいるのだけれど、映像の処理の具合で、なんだか不思議な非現実感を感じさせるせいかもしれない。この娘さんが配信する映像は概して独特のテイストですよね。]

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で、それはそれとして、このビデオを眺めていると、最近の「西洋人から見た東アジア市場」(つまりはオリエンタリズムの一種ですが)的には、日本海に張り付いている島のミステリアスでちょっとエキセントリックな女子たちよりも、大陸のアクティヴな方々のほうがアトラクティヴなのかなあ、と思ったりしてしまいますね。

日本海に張り付く島々で生産されたアニメーションに出てくる魅力的な二次元キャラクターを「実体化」しているのは、この島の人々自身(最近何かと苛々してご機嫌斜め)ではなく、むしろ、大陸の一層アクティヴに欧米にアピールできている人たちのほうだ、みたいな受け止められ方をしていたりするんじゃないか?

日本海や東シナ海の向こう側との間に絶対に越えることの出来ない壁があったほうがいいんだ、と頑迷に言う人たちは、一度、そういうことを考えてみてもいいんじゃないのかなあ、と思ったりもする。

[日本海側の百万石な街のケンちゃんは、頑固一徹ぽい反面、アジア方面に対しては案外オープン・マインドだったりするんですよね。そこは、ちょっと面白いところだなと思う。

なにやらの特権に怒る人々がこの島のどの地域でより強く支持されているのか、分布を詳しく調べたら、何か発見があったりしないのだろうか。なんとなく、太平洋側の人々の主張のような感じがしないではないのだけれど……。日本版ネオリベの源流だと言われたりもする「太陽族」は湘南=太平洋を眺めて暮らす人々の思想だったりするわけですし、皇国史観の水戸も、海に面した場所ではないけれど広い意味での太平洋側ですよねえ……。「海」と言ったときに、太平洋を連想するか、日本海を連想するか、オホーツク海なのか、玄界灘なのか、東シナ海なのか、関門海峡や瀬戸内海なのか、結構ニュアンスが違うかもしれない。捕れる魚も違いそうだし。

リムちゃんの映像の話が、洗っても容易に生臭い臭いの取れない魚介の話で終わって申し訳ないけれど……。]