少しずつ問題の所在を特定できつつあるような気がするのですが、パルジファルのああいう上演・演出は、たとえば、社会学者さんが論壇向けに仕掛けた議論で言うところの「虚構の時代」を一度チャラにしないとしょうがないんじゃないですか、という提案と受け止めることができるかもしれない気がします。
仏教をあの物語に持ち込むのは、特定の教団の厳格に設定されたミッションを別の宗教で中和してしまうことですよね。宗派間・宗教間の違い・対立は、現実の上に覆い被さっている紗幕・ヴェールのようなものだから、それを取り去ってしまいましょう。少なくともわたくしハリー・クプファーは、「救済者に救済を」という言葉をそのような提案と解釈したことをここに宣言します、みたいな舞台だったわけです。
で、団体間・宗教間の対立を取り去ったらどうなるかというと、そこにあるのは、人と人がお互いを「du(お前)」と呼び合うむき出しの対人関係であり、そのようなむき出しの対人関係は、相手の苦しみが己の苦しみであるような「共苦」に至る、と。
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昨夜はC. P. E. バッハのマタイ受難曲というのを聴かせていただきまして、パッションですから、ワーグナーのパルジファルでクンドリの輪廻転生の起点と位置づけられているところのイエスの刑死の場面が語られたわけで、なるほど18世紀後半のハンブルクのパッションもまた「共苦」の芽と呼べそうな出来事を含むわけですね。
が、エマヌエル・バッハのパッションでは、そこにすぐさま注釈風のお説教(アリア)が続いて、不安におののく会衆よ、このような成り行きに至ったとしても、それを見守る全能の神が天上界に確かにおわしますから安心ですよ、みたいな世界観になっているようでした。おそらくこちらのほうが、やや通俗的かもしれないけれども、普通の意味での「救い」の観念だと思います。
(そして、こっちはこっちで、弥陀の本願とどこがどう違うのか、という風に大乗仏教と付き合わせて物を言う議論の系譜がありますよね。)
キリスト教が必ずワーグナーの描いたような限界状況に至るという風には、おそらく言えない。
なるほど、ワーグナーが描いたような限界状況を設定すると、さらにその先にキリスト教が仏教で中和されたむき出しの人間関係、共に苦しむ終わりなき求道/遍歴、という地点を開くことができるかもしれないけれど……、
そして、文明の衝突とか何とか、ここ十数年、そういうヴィジョンが様々に提案されているわけですけれども、みなさん、ほんまに、そういう場所へ行きますか?
というあたりの問題について、観た人それぞれが腹を決める、あるいは、迷う。みたいなことが期待された演出だったんだろうと思います。
舞台上のドラマとしては、かなり成功していたと思う。
その上で、それを観た者がどう受け止めるのか。
「あなたは、どうしますか?」
もとい、
「お前さん(du)は、どうなんだい?」
[で、クプファーがフィンランドの歌劇場のプロダクションの進化形であると言う「光の道&三人の僧侶」のパルジファルに日本が応答するとしたら、新国立劇場がフィンランドのゲスト公演として松村禎三の「沈黙」をやることなんじゃないかと思ったんですけれど、どうでしょう? あのオペラで最後に頭上から射す光を、クプファーの光の道と対置してみたらいいんじゃないか。そういうことができてはじめて、対等のパートナーシップですよね。]