リゴレットのハシゴ

ということで関西へ戻ると連休中にオペラ二連発なわけだが、

みなさん、歌手の名前とか指揮者がどうだとか原作との照合だとか、そんな風な「情報」にまどわされないで、「舞台」をみなきゃダメですよっ!

一番最初に何が見えましたか?

リゴレットがハシゴをよじのぼったでしょ?

そして第1幕のクライマックスで何が起きましたか?

仮面を被った廷臣たちのなかから、すらりと長身の2人が体操選手かと思う軽業で、壁に立てかけられたハシゴをスルスルとのぼって壁の向こうへ消えたでしょ?

で、そのあと第2幕はいきなりマントヴァの城の一室に天井まで続く長く高いハシゴがしつらえてあったのだから、「こりゃ絶対誰か上がる、いつ、誰がこのハシゴにとりつくのだろう」とハラハラドキドキのサスペンスが展開したじゃありませんか。

(公演はあと一日あるので、誰がいつハシゴに手をかけるのか、結果は見てのお楽しみ。)

そしてここまでくると、第3幕の酒場のいったいどこにどういうハシゴが登場するのだろう、と幕間の休憩で期待が高まるじゃないですか。

蓋を開けてみると、3幕に出てきたのはハシゴじゃなくアレだった、なんだ、中折れしてるじゃないか、という若干の肩すかし感があり、確かにそこへあの人が取り付いたけれど、イマイチ、これだ、という絵が決まるまでには至らなかった。

ひょっとすると、一直線に上へ上へと延びる欲望が中折れするところに、わたしたちは不発を運命づけられたドラマを見るべきだったのかもしれませんが、

やっぱりこれは、

関西の歌劇にアレが出てきたら、歴史の必然として、「赤い陣羽織」の第1場のお代官が登場するくだりと比較される文脈に組み込まれてしまうわけで、アカジンを越える使い方をしないと、演出の歴史に名を残すことはできない。関西の歌劇の第一テノールは、昭和の時代から、アレの上の姿がサマになってこそ一人前なのです。のぼりかけたところで止まって、しかもそのまま、まだ歌が途中なのにスゴスゴと降りてしまうなんてあり得ない!

第一テノールがこんなブザマなことをしてはいけないし、スターにそんなブザマなことをさせるなんて、演出家として大失態じゃないですか!

(ハシゴのてっぺんまで上って調子こいてる男は必ず転落する、という暗黙の掟がこの舞台を支配しており、第3幕の男は不発気味に途中でアレを降りたから死なずに済んだのだと考えれば、掟の整合性は保たれるかもしれないし、そのような生き方は「頭がいい」のかもしれないが、それはドラマとして面白いのか、という話だ。「出る杭は打たれる」、だから頭を低くして静かにしていよう、の精神で活気ある舞台を作ることはできまい。)

演出家が、(たぶん知らないうちに)関西オペラの原点のところの高いハードルにいきなり挑戦して、途中で撤退しちゃったってことかもしれませんね。初動は素晴らしいけれど……。

もちろん、日本のオペラ演出における「脚立」部門(←あ、言ってしまった)というのは、そこで勝っても、だからどうした、ということではあるわけですが(笑)。

粛々と来たるべきカタストローフの場を掃き清めるホウキとか、ときには愚かな為政者たちの唯一の安息の場となり、ときには美事にドンデンを返すソファとか、存在者の働きかけをまちうける道具存在は脚立だけではないのだし、この演出家も、あるいは偶然かもしれないし、たった一回だけではあるけれども、酒場のテーブルをガガガっと引きずりながら動かすことができたのだから、何かができる人ではあるのだと思う。それ以外の場面では物や人の移動を緞帳と幕の裏に隠すか、さもなければ、これみよがしな自動運転機械に頼り、ズタ袋に人間を入れて引きずることなど恐ろしくてできない、というように、「過剰に気弱な恥ずかしがり屋さん」だったけど(笑)。

[事情で公演そのものについてのコメントは控えなければならないので、こういう書き方で80年代風に「テマティスムな表層」(笑)と戯れてみました。

あと、第1幕のリゴレットの隠れ家の大階段の下の空間に4つか5つ並んだ椅子が何だったのか、特段の活躍がなかったので、それだけは疑問だった。第3幕の酒場に別の色の椅子がたくさん並んでいるのは、なんだかドイツの劇場にありがちな絵柄のようにも思われ、誰も座らない椅子を舞台に並べるのは、ひょっとすると作品の解釈として出てきたものではなく、「オレの舞台は椅子なんだよ、理由はないけど、とにかく椅子を並べるんだよ」みたいな、演出家さんのスタイル、ゴダールのカモメみたいな「作家性」なのかもしれませんが。]