補足

単なる枝葉末節の話なのではないか、という起こりうる疑問に対する答えをいちおう書いておくけれど、

舞台で高いハシゴを使うのは、足下が不安定で演者を危険にさらすわけだから、演出家が頭の中で着想したとしてもそれだけでは実現しない。めちゃめちぇ色々各方面のコンセンサスを得ないとできないはずの、「思う」だけでは実現しない行為の代表なわけで、それをいつどのように実現できて、いつどこでは実現できなかったか、ということをチェックする話になっているわけです。

一方、椅子は、「空間が寂しい」と思ったときにその隙間を手軽に埋めることができて、なおかつ、調達も容易だし、勝手に動き出さないから邪魔にもならない。こっちは、やろうと思えばすぐにできてしまうことに対してどのようなポリシーで演出家が臨んでいるかをチェックする試金石になるかもしれない。

そういう風に、ある意味で対極かもしれない二つのモノが舞台上で突出した存在として見えていたのは、面白いことだよねって話です。

もちろん、あらかじめ何かの用意をしてそのことに気づいたわけではなく、普通に見ていたらそうなっていたから、そうなっていると書いたに過ぎないが。

(そして文中に「歴史」みたいな言葉を使ったわけだけれど、これも何ら抽象的な話ではなく、劇場の大道具・小道具のスタッフさんは、「あの演目でこれを使ったな」みたいなことは、実際にモノを管理する人たちだから当然覚えてるはずですよね。リゴレットだったら、ト書きにハシゴがあったはずなので、世界中の劇場にその場面をどう処理したかという無数の経験と伝承があるはずだし、そういうのと違って、「えっ、ここでそれを使うか?」ということがあれば強く印象づけられ、伝説になることもあるんじゃないでしょうか。

だから、「歴史」がそういうところから作られる場合が(も)あるんじゃないかと思うわけで、演出家さんは、そんな大道具さん・小道具さんといつも接する職業なのだから、そのような場に流れている「歴史」に鈍感だとしたら変だと思うし、実際、演出家さんはそういうモノの取り扱いにとても敏感だという感触がある。たぶん、そうじゃないとやっていけない職業なのでしょう。

演出家になろうと思えば、ドイツ語の先生と一緒に読書会をやる以外にも色々やることがありそうだ。)