屁理屈

ヴェルディを聞き始めた、と言い出したときから、そのうち冗長なところがあると文句をつけるんだろうなあと思っていたら、早速来た。

器楽にも、気晴らしはた〜〜〜〜〜〜〜〜〜くさん入ってるよ。シェーンベルクやウェーベルンにもある。バッハなんていっぱい色んなことやってるじゃん。

古い教科書的な説明では、そういうのが「必然性のある逸脱である」とかなんとか強引に屁理屈で言いくるめられていて、そうなのか、と鵜呑みにしながら聴く従順な人たちが、気晴らしを気張らしだと気づかずにマジメに聴いてるだけだと思う。

……こんなことを言うと、「気晴らし」とは何か、遊びとは、逸脱とは、奇想とは、等々お得意の寄り道をはじめて、そのうちオペラからどっか別のところへフラフラと出て行っちゃうのだろうが、ちょっと待て。まだ話は終わっていない。

「長さ」というのは、一定のところを過ぎると、量ではなく質として受け止めた方がいいんだと思う。短編と長編は書き方から何から変わって来るものなのだろうと思うのだけれど、それと同じで、間に2回休憩が入って全部で5時間の交響曲は、存在しないけど、もし本当に書こうとしたら1時間程度で終わる現行の作例では対処できないことが色々起こると思う。

で、それを「水増し」とか言っちゃうのは、「長さ」の観念を持っていないことになるのではないか。

作家は短編も長編もいちおう両方書くし、画家は居間に飾ることのできる小さいのから大聖堂の天井画や壁画まで、一生のうちに長短・大小様々なスタイルを経験することになっているけれど、作曲家は、オペラを避けると、一生、短編・中編しか書けない人になっちゃうんだと思う。そんな連中の基準で長編の善し悪しを語られたら、作曲家もたまったもんじゃなかろう。

(余談だけど、映画やオペラを、ビデオとかで家でみるときに、「今日はここまで」って途中で止めて、次の日に続きからみる人、いるじゃないですか。私はあれがよくわからない。今は忙しいからそうしているけれど、いずれ時間を確保して全部続けてちゃんと見る(できれば劇場で)というのならわかるけれど、そういう風に細切れでみて、それで終わりというのがわからない。

お前、本気じゃないだろう。人生賭けてないだろう、カラダ張って受け止めるつもりがハナからないだろう、とか思ってしまう。青臭い言い方だけど。

フルコースのディナーを、私は食が細いからということで一日目に2皿目まで食べて、次の日は魚料理から始める、とか、ありえるのだろうか。まあ、これこれこういう理由で、とか、あるのかもしれないけれど、なんかもう、そこまで言われると辛気くさい。

一般論としては、いつどこで何をやろうと、自由にすればいい、ということになるが、「今頃になってオペラに手を出しはじめた大久保賢」という特定の個体に対する当面の処方箋としては、あなたにとっての一番の難所は「長さ」の問題であろうと思われるから、いい機会なので、もうちょっとそのことと向き合いなさい、だな。

芝居の本番は、「今ここにある現実」だ。「家でCD聴いてると退屈するけど、劇場では意味があるのかなあ、でも、よくわかんないなあ」とそんなところでグズグズしているだけでやりすごそうとするのは、現実を歪曲しているのではないか。「運命の力」は、関西でも、ごくたまに、ではあるけど上演されたことのある演目だからね。)