「……」

もしかすると、増田聡先生は、研究者が同じ分野の最新の研究書を評価する、という行為にどういう意味があるか、わからないのだろうか?

それは何に似てくるかというと、研究論文の序論で先行研究を評価する作業に似ている、というか、それとほぼ同じ作業をカジュアルなスタイルで書き綴る行為になるわけですよね。

だって、研究者が「私にとってその書物がいかなる意味をもつか」ということを綴ろうとしたら(すなわちそれが書評を書くという行為ですが)、その書物がこれまでの当該分野の研究の積み重ねのなかでどのような位置にあるのか、どのような新しい知見や新しい可能性を含むのか、ということを当然書くでしょう。

あるいは、その書物の目指す方向や主張に異論があれば、自らの研究者としての立場や知見に照らしてそれを論証することになるでしょう。

そしてそのような文章は、他の研究者にとっても有益であるはずだし、だからそのような書評が学会誌に掲載されるわけでしょう。

(アカデミーは、同じ分野を探究する人たちが手紙を回覧するところから始まったと言われていますが、その構造は今も変わっていないということだ。結構なことじゃないですか。

で、輪島本が「不幸だ」というのも、これとまったく同じ文脈ですよ。ちょうど、格闘家が世界を遍歴して対戦しながら腕を磨くように、評価されることを待望しているに違いない書物なのに、誰もこの本とまともに勝負しようとしないから、変な話だなあと思うわけです。)

例えば、吉田寛先生の書評は手慣れたものですが、そのあたりを全部押さえたうえで、それを初学者・学生にも読める文体でさらっとまとめているから、ああ、上級者の書いた書評だな、と思うわけじゃないですか。

そして岡田正樹くんの作文は、本のサマリーが大半で、どのような分野のどういう位置にある研究なのか、どこに新しい知見や可能性が示されているのか、そのあたりについて、評者は一切言及していないからダメだ、と私は判断しました。

(サマライズの手法や切り口に評者の主張を間接的ににじませる、という高等なテクニックがあることは承知していますし、字数の限られた書評(や批評)では、しばしば、そういうことが行われますが、今回の作文は、うっかりしていると読み落としそうな高度なテクニックを駆使してまとめられているわけでもないですよね。(もしかして、そうだったら申し訳ないと思って、わたくし、かなり慎重に読み直しましたよ。))

そして、このダメな書評を面白く読む角度があるとしたら、先に書いたようなやり方しかないなあ、残念なことだなあ、と思っているわけです。

わたし、何か変なこと言ってますか。

これが人文学じゃないんですか?

[ちなみに、音楽学会機関誌の書評の査読は、しばしばもめ事の原因になるらしいのだが、それは、書評を書く人というのは、書く行為で自分の研究者としての力量が試されてしまう、書評は書物を評価することで、書いている自分が評価されてしまう構造になっているからだと思います。そういう構造を自覚することなしにまともな書評は書けない。(過剰に意識しても書けなくなっちゃいますけど。)で、査読というのも同じことで、査読することによって査読される側から査読者の力量が測られてしまう構造が当然のように存在しているのに、この査読者は本当にそれがわかっとんのか、コラ!とイライラするわけですよ。]

[あと、念のために言い添えますけど、これは書評というシステムが機能しているかどうか、という話をしているだけで、書き手の人格への攻撃ではないですよ。

ついでだから書き手の人格や立場に思いを馳せるとしたら、まあ今回は、たまたま周りに「こんな感じにしとけばエエよ」とあまり筋のよくない助言をする人がいたからこうなっただけで、やればできる人、なのかもしれないし、とりあえず今はサマリーをきっちり書くのが自分の課題だと思って書いただけなのに、あれよあれよという間にそれが掲載されてしまって当人もビックリなのかもしれない。いずれにしても、今回の作文は書き手の人格が評価の対象になりえないような書き方がしてあるわけで、だから同語反復的になってしまうけれども、これだけでは、書き手がどういう人なのかさっぱりわからん。匿名批評も同然でしょう。これでは。

もし、できる人、なんだったら、そのうちちゃんとした成果を世に問うてくれることでしょうから、それでいいんじゃないの。]