「体系的」と「歴史的」

グイード・アドラーの体系的音楽学と歴史的音楽学の区別は、自然哲学と自然史の区別に似ているなあ、と気が付いた。(同じなのかどうか、ちゃんと確かめるには色々準備が要りそうだが。)

文系vs理系みたいに対立させたら大学が弱体化して管理が楽になるだろう、みたいに悪巧みする人がひょっとするといるのかもしれないけれど、実際に話が通じなくなることが多いのは、むしろ、ヒストリカルにしかモノを考えられない人が、システマティックな議論に対して、盲信か反発か、どちらにしても過剰反応するせいではないだろうか。

小谷野敦が、外国語の勉強は苦手だ、と公言しつつチョムスキーをほとんど無条件くらいに礼賛する、とか、増田聡が、タイプとトークンのような形式論理を振りかざすのが大好きなのに、語源に遡るような言語の動態のシステマティックな解析を断固拒否する、とか、いわゆる「文系」のシステム対応は奇妙にイビツだ。(リベラルな「人文」の経済音痴ぶりは、もはや危機的で致命傷になりかねない、との声もあるみたいだし。)

岡田柿衛/節人/暁生の家業は広い意味での「自然史」なのだと思われ、お孫さんは体系的音楽学の方面がからっきし駄目なわけだが、伊東信宏先生は、そのあたり、結構、話が分かる印象を受ける。で、柴田南雄が徹底的に学生を洗脳したその先にある東京藝大の楽理も洋楽にもっぱら「自然史」的にアプローチする強固な伝統の先に存続しており、比較音楽学が民族音楽学から音楽人類学へとシステムを強化しようとした一時の動きは、なんとなくウヤムヤになり(あれが何故ダメだったか、総括はこれからだと思うけれど)、楽理という名の自然史は安泰。だから作曲科ソルフェージュ教師の逆襲の意味がよくわからなかったりするらしく(最近の若い人はそうでもないのか?)、そういうのを脇で見ている本郷の渡辺裕は「文化史」とか「文化資源学」とか、上野との間に波風が立たなそうなところでどうにかしようとしてきたわけだが(路上観察は現代の博物学だしね)、そうなると、京都の吉田寛先生が認知・知覚ということを明白に言うのは、いい位置につけているなあ、と思わざるを得ない。