もたざる人類学の悲哀

ポピュラー音楽から問う―日本文化再考

ポピュラー音楽から問う―日本文化再考

最初の明清楽と大陸浪人の話は面白かったけれど、このラインナップが「歴史的視点をもつポピュラー音楽研究」なのだとしたら、ポピュラー音楽の現状の日本的観念が過去をそれほど深く掘るだけのスペックと射程距離を持っていないことを露呈しているのではないだろうか。日本のポピュラー音楽研究は勢いだけで装備が貧弱、独立国にはなれそうにないね、とバレた感じがする。「から問う」のもいいけど、自らの足場が大丈夫なのか自問して欲しい。

続く輪島先生の「カタコト歌謡」は、演歌論を補完し、文化触変という地球上に遍在する人類学的事象を取り扱う上で有用かつ射程の長い新兵器であることを主張する壮大な序論ではじまるわけだが、阪大教員就任後の最初の新製品がこれかあ、という感じがなきにしもあらず。

音楽人類学の構築に向けた最初の一歩が「カタコト」というのは、ひと頃よく言われた草の根の環境運動、熱帯雨林を守るためにワリバシを止めよう、というのを連想させる。演歌をカタコトで補完する、という国内問題と、地球の生態系に思いを馳せる壮大な理念がほんとにリンクしているのかどうか疑わしいわけだが、まさか、一見リンクしていないものが実はつながっている、ということを確信する支えが複雑系のニュー・サイエンスだったりするわけじゃないですよね? 目の前の蝶々の羽ばたきがカリブ海のハリケーンを引き起こす、みたいな(笑)。

読みながら、この人、まるで山口修のような書き方をするんだなあ、ということに驚いた。

普遍志向の人類学ワードによる壮大な意味づけと内向きの実践を言葉の上でつなげちゃう感触がよく似ている。

しかも、英語が堪能で数々の国際会議を裁いた前任者の逆を突くかのような「カタコト」論なのだから、正確にポジとネガだ。

阪大で音楽人類学をやろうとしても、あそこにはモノが何もないんですよね。美学科全体としても、外からお金引っ張ってきて何度が調査をやっただけで、手持ちの資料は何も持っていないし、そういうのを蓄積しようという発想とインフラが最初からまったくない。たぶん、そんなんで人類学は無理だと思うんですよね。

で、どうなるかというと、北米の環太平洋戦略のエージェントにならないか、みたいな甘い誘惑があるんだと思う。流暢な語学力でネットワークに組み込まれるか、「ワタシ、エーゴ、ワカラナイ アルヨ」みたいなカタコトで逃げ切りを図るか。

そのあたりを必死で考えるのが目下の課題になるのだとしたら、ちょっと哀しいことではあるかもしれない。

「ニセの混血」は、ホントにそこからガラガラと音楽人類学が組み変わるスイートスポットなのだろうか。阪大教員として生きていく上での決め技なのはよくわかるし、ある種の状況に置かれた文化の地政学上の戦略として、一定の一般化はできるかもしれないなあとは思うけれど、性急に大きく出ないほうがいいんじゃないだろうか。それを検証できる潤沢な環境があるわけではないのだから。

「苦し紛れの一撃」(真珠湾?)は、たまたま今そこで一回うまくいっただけ、の可能性を考慮したほうがいい。

[でも、こんな風に感想を書いていると、台湾あたりに潤沢な資金を積んだ「アジア大衆歌謡研究所」とかが出来たときに、先生が電撃移籍したりしそうかなあ……。]