退屈の意義

ということで「音楽のエッセンツィア」というシリーズが瓦解・消滅した先に何があったかというと、三輪眞弘の作品が上演されたわけだが、私は前半の退屈な2つの作品が一番面白かった(変な言い方だが)。

後半のアコーディオンとMIDIキーボードは、色々リクツはつけられるけど、人形作りを趣味にしていらっしゃるんですね、ということで、技術開発ならびにフォルマントくんの成長を見守る育成ゲームを生暖かく見守っている感じになるけれど、前半のひとつのコンセプトを延々と時間かけて展開する系譜の作品は、先の「暦年」へのアンサーピース(楽譜をロビーで売っていたので買った)にも通じる、はるかに奇妙な意欲の産物であるような気がします。

湯浅譲二は、ホワイトノイズによるテープ音楽を制作したのが「お手柄」ということになっているけれど、「退屈さ」のみによる作曲というのは、それに似たプラスとマイナスが反転した世界を開くのではないかと思う。

ノイズにも色々あるように、退屈にも色々な退屈がある。

単体の素材は刺激的なのに延々と繰り返されることで感覚が麻痺するのがミニマル・ミュージックの常套手段。

30分間に数音のみ、というような微細で緩慢な変化が起きている場に立ち会うと、そのうち、「出来事」の管理は音楽家さんにまかせて、こっちはこっちでのんびりだらっと過ごしましょう、と公園のベンチに腰掛けて休憩しているような気になるのが、晩年のケージのナンバーピース。

謡本を開いて一生懸命おさらいしている人たちと、そういう約束事がびっしり詰まった共同体からはじき出されたところで何をどうしたらいいのか戸惑う一見さんが同居するのが、能楽堂の退屈。

退屈といっても、それぞれ違うと思うんですよ。

ワーグナーも、これとはまた種類の違う「退屈」を装填しているし、大久保賢は、岡田暁生のオペラ論でワーグナーの退屈は説明し尽くされていると信じているから岡田の本の言葉をなぞった感想しか述べないけれど、教養人の議論につきあうときの退屈とか、儀式の段取りとしての退屈とか、楽劇の退屈は、そのなかに色々な要素が混じっていると思います。

三輪眞弘の退屈は、プログラムに載ってる藤井貞和の詩を読みながら聞いたら、まったく退屈ではなく、むしろ、舞台の上も客席も、みんな、それぞれにやるべきタスクがあって、それをコツコツこなしているうちに時が経過する作りだから、随分と親切な設計だと思います。(原発事故で人類が死滅したあとに生き延びた種族はこんな感じであろう、という、SF的なプロットもあるし。)

21世紀は、退屈さに対して鈍感な人、絶えず刺激がないとダメな人にとっては辛い時代になるんじゃないだろうか(笑)。