期待される聴衆像(プレイヤーではなくオーディエンスが「汗をかけ」)

思うにメセナ全盛期を象徴するミュージック・トゥデイ(武満徹)みたいのは、それまでの何十年かで「現代音楽」の出し物の在庫がたっぷりあったからできたんじゃないかと思うんだよね。これとこれを組み合わせたらお客さんが喜ぶだろう、と余裕をもってチョイスするレパートリーがあった。

FM東京時代の東条さんが賞をもらった「カトレーン」(タッシと小沢・新日フィル)も同じ頃で、あれは武満徹がバリバリのアヴァンギャルドから足を洗って、これからはきれいな音しか書かない、と開き直った晩年の入り口のような作品ですよね。

アヴァンギャルドが勝利したんじゃなくて、メセナとかマスメディアに乗る商品としての完成度とか、そういう付加価値をたっぷり盛り込むだけの自信がついたから、武満徹は「セレブへの道」を選択した。

今はどうかというと、そうやって何十年か、過去の遺産で食べてきた時代が終わった先じゃないですか。

「聴衆を育てる」としたら、美食を味わう繊細な舌、みたいのではなくて、三輪眞弘が30分よーわからんことを舞台上でやっても食らいついて何か見つけ出すような、ガッツく力じゃないですかね。

「ウィーン・フィルは素晴らしいわ」みたいなオバアちゃんが横で文句言ってたら、「それは違うと思います」と言ってロビーで口論をはじめちゃう。とか、そういうの。

で、主催者側のやるべきは、手取り足取り転ばないように、じゃなくて、食わず嫌いで逃げだそうとする客がいても、これくらいがんばれないでどうするか、と客席へ押し込んで、クレームは一切お断り、みたいな態度なんじゃないかなあ。

それで中身がカスだったらハリボテで最悪だから、しっかり勉強しないとハードコアは維持できないと思うけどね。

舞台の上の音楽家にアマチュアまがいの必死の形相・汗びっしょりを期待して、それを観客が左うちわで見物する、というのは話が逆で、平然とものすごいことをやるプレイヤーに聴衆が翻弄されるくらいでないと、クリエイティヴなことはできまい。