http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/26226137.html
その楽譜は私も知ってますし、どうなっているんだとは思いますが、バルトークの息子が自分で校正した楽譜を出したりしている不思議な動きを見ていると、何かややこしいことがあるんじゃないでしょうか。
でもねえ、20世紀のシリアスな音楽の楽譜を、主に古典派までの音楽で確立されたような批判版の校訂の水準でやろうとすると、自分でやってみたらわかりますが、ほとんど不可能なくらい大変だと思います。
新ウィーン楽派は立派な全集が刊行されていますが、たぶんあれは、作曲家自身が創作の原理原則をつまびらかにしていたり、様々な二次資料が残っているから、それでどうにか資料の異同を論理的に整理して、一定の方針に沿った編集が可能になっているのでしょう。
でも、そういうタイプの書き方をしていない音楽の場合、どの音・アーティキュレーション・奏法で印刷譜を確定すればいいのか、判断の手がかりがないケースが相当たくさん出てくるはずです。
(たとえばプーランクとか、あのあたりの作曲家の楽譜の校訂は、厳密にやろうとすると、ひどく不条理なところへ迷い込んでしまうんじゃないだろうか。)
楽譜をちゃんと編集できるためには、作曲家当人と同じくらい精確にその音楽に通じていなければならない、というのは、何も20世紀の音楽に限ったことではありませんが、調性・和声・対位法などのシステムから逸脱したり、新しいシステムを自前で作りながら作曲している音楽の場合、その音楽に通じている人間の数は激減する。
もし、「感覚」で音を選ばれてしまった日には、誤記なのかどうなのか、他人が合理的に判断する根拠の底が抜けてしまうわけですからお手上げです。
そんな風に高いスキルを求められ、なおかつ、あっちこっちに「地雷」が潜んでいる楽譜の編集・校訂を誰が責任をもってやれるのか、誰が人材を育て、確保するのか、コストがペイする形になりうるのか、ちょっと見当がつかないような気がします。
まあ、バルトークだったら、ハンガリーが国の威信にかけて何年何十年かかってもどうにかするんだろうと思いますが、同じことを日本の楽譜出版社ができるかどうか。
そもそも、ロマン派以前の楽譜についても、今の楽譜出版社で信頼できるプロの校正者って、どれくらいいるのでしょうか。おそらく今はまだ、往年の写譜の達人みたいな人がいたりして、しばらくは大丈夫なのだろうと思いますが、今後も専門職として成り立っていくのでしょうか。
誤植を見つけるのは楽だけど、楽譜を作るのは大変なことだし、大久保さんのような人(そして音楽学者を名乗る人)は、「誤植や誤訳の指摘」とか「楽譜の選び方」ガイドみたいなユーザー目線のサービス業にかまけるのではなく、ひとつでも、少しずつでも、自前で信頼に足る楽譜を刊行する側に回ってくれたほうが健全なんじゃないかなあと思います。