「魔笛」と「パルジファル」

小岩信治『ピアノ協奏曲の誕生』はブラームスに到達。

その前のリストのところでは、本のなかで文献を紹介するだけで終わっている協奏曲第1番のすべての主題の間にある関連(いわゆるリスト流の主題のトランスフォーメーション)を具体的に説明したのですが、こういうドイツ音楽の「主題展開の時代」の具体的な技法と作例は、今ではもう、コツをつかめばラクチンにいくらでも解説できるコモディティ化した知識になっていて、やっていると、だんだんウンザリしてくるんですよね。もうわかったから他の話しようよ、という気になってくる。

ワーグナーやリストのように和声と形式機能の弁別をユルユルにして作曲する道を選ぶと、主題(旋律)を自由自在に変形させて絡み合わせるのは、やりたい放題できちゃうわけで、きりがない。縛りのなさすぎるゲームがクソゲーになるのに似た領域を開いてしまった感じがする。

(シューベルトの「天国的」なのかもしれない主題の果てしない変奏の連鎖は、既にそのワナに嵌まりかけている感じがあるけれど……。)

で、小岩さんは、ブラームスのコンチェルトは(三大Bという通俗的なレッテルに反して)モーツァルトを手本にしていたんじゃないか、と言うんですね。

ショパンのベートーヴェン嫌いはそれなりに知られているように思いますが、19世紀の音楽の歴史は、ベートーヴェンに心酔する人たちを輩出した一方で、水面下に「アンチ」の水脈を育てたのかもしれない。

そんな風に考えると、新ドイツ派の主題展開やりたい放題にうんざりしたあとで救われたような気になります(笑)。

モーツァルトの音楽は、正直、たまにちょっとだけ聴いたらいい、続けてたくさん聴きたいとは私は思わないのですが、「モーツァルト主義」が心のオアシスになり得る歴史的な文脈は、なるほど実在したのかもしれない。

で、ブラームスの次の「モーツァルト主義者」はリヒャルト・シュトラウス、ということになりますが、

フリーメイソンのことを考えると、「パルジファル」の聖杯騎士団は、モーツァルトがカルトに嵌まって書いた「魔笛」のワーグナー流の焼き直しだったのかもしれませんね。ちょうど、「タンホイザー」がウェーバーの「魔弾の射手」のアップデート版みたいな話になっているように(「魔弾」は隠者が最後にちょっと出てくるだけなのに、「タンホイザー」は全編、巡礼とか救済とか、キリスト教に染まっている)、今度はモーツァルトの不真面目で中途半端なところを「矯正」して、正真正銘のカルト教団の話を作ってしまった。

これだけでは、だからどうした、という話ですが、モーツァルトは、単体としていい、というより、そういうのを必要とする文脈があって創られた存在、歴史/物語のなかの「位置」なのかもしれない。それがつまり「神童」だと思いますが、「神童」という位置に嵌まってしまった個体であるところの当人はシアワセなのかどうなのか、ということですねえ……。