欧文脈

サンプル1:http://www.kojinkaratani.com/jp/essay/post-42.html

柄谷行人はややこしいことを考える人、という印象があるけれど、ひとつひとつの文は短かくて、構文はシンプル。1文が100字を越えることはないみたい。

私は一九九〇年代に、カントからマルクスを読むとともにマルクスからカントを読むというような仕事をし、それを「トランスクリティーク」と名づけた。
また、同じような仕事をフロイトとカントに関しても行なった。
以来、私はカントについて考えたことがない。
が、最近、トム・ロックモアの『カントの航跡のなかで―二十世紀の哲学』(牧野英二監訳・法政大学出版局)を読んで、多少考えることがあった。
ロックモアのやり方が、私と似ていたからである。

話がややこしくなったところで80字以上の文が出てくるが、そのあとは、バランスを取るかのように短い文が続く。

カントは一方で、エピクロス的な見地に立ち、歴史を目的論的に見ることをあくまで斥けたが、同時に、目的論的観点をとることが理性の統整的使用としてのみ許される、と考えたのである。
理念は仮象でしかない。
しかし、人はこの仮象なしにやっていけない。
という意味で、統整的理念は超越論的仮象である。
カント以後のロマン主義的哲学者は、このような観点をとらなかった。
理念を実在と見なしたのである。
彼らは生命(有機体)に特別の地位を与えた。
つまり、有機体に、機械的決定論と合理論の二元性を越えるものを見出したのである。
カント以後の「観念論」はむしろ、そこから来たといえる。

サンプル2:http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20141219/p1

こちらは、1文が長く、構文も複雑な文体で柄谷を論じる文章。

さらに、このように台湾のひまわり学運を支持する柄谷の姿勢は、儒教を構成原理とする「中華帝国の原理」を肯定する最近の言論活動とどう考えても相互に矛盾をきたすはずだ。
例えば、『現代思想』2014年3月号(特集:「いまなぜ儒教か」)の丸川哲史との対談で柄谷は、むしろ丸川と非常に近い立場から中国的な、ネーション=国家=資本とは異質な、「儒教」を核とする中華帝国的な秩序を全面的に肯定する発言を行っている。
つまり、柄谷の一連の発言を虚心に読む限り、政治的に中国を擁護し、台湾ナショナリズムを批判する丸川との対話では中国の帝国的秩序を肯定し、一方中国に批判的な台湾知識人との対話ではヒマワリ学運を持ち上げる発言を行うという、どう考えても「二枚舌」としか言いようのない言論を展開しているわけだ。

問題は、この「路上の人」の連載でも書いたように、近年の柄谷の「アジア主義的転回」(とでもいうべきもの)の姿勢そのものから来ている。
要は、観念的な考察を一歩離れたところでの最近の彼の発言は、それが日本であれ中国であれ台湾であれ、近代的なネイション=国家=資本に回収されない要素をいたるところに見出し、それをひたすら「素晴らしい」と持ち上げることに終始しているのではないだろうか。
それがあるときは柳田国男への傾倒であったり、あるときは中華帝国の再評価であったり、また議会を通さない対抗運動としてのひまわり学運への肩入れであったりする、ということではないだろうか。

あと、どうやらこの人は、1つの段落を3つの文で組み立てるのが思考のリズムなのかもしれない。

このような柄谷の姿勢は、彼が追い求める「ネイション=国家=資本を超えるもの」とは結局のところ「そうではないもの」という否定神学的にしかその本質を捉えられないのではないか、という疑いを呼び起こす。
だが、そのことはとりあえずおいておこう。
より深い問題とは、その姿勢がしばしば、「アジア的なもの」の実体化につながってしまうということである。

サンプル3:http://cruel.org/other/asada.html

山形浩生の文章は、昔から歯切れがいいんですね。

ちなみに、プレモダンからモダンへの移行は、資本主義みたいなものの浸透につれてずっと進んできた。
それはまあ、歴史的な経緯をみるとある程度納得できる。
では、モダンからポストモダンへの移行はどうやって起こる?
実は、それはわからんのですよ。
浅田彰はそこで、軽やかに逃走の線を描いてどうのこうの、とかスキゾ云々、というようなことを言う。
いくつか個別の事例も出してくる。
白石かずこの詩はよい、とか。
スクリッティ・ポリティ(恥ずかしいなあ)がデリダを引用するのはすばらしい、とか。
でも、その具体的な姿については一切書いていない。
ポストモダン社会がくるといいな、というような感じのことは言っているけれど、それが確実にくる、とも書いていないのだ。

サンプル4:http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20141217

そしてこういう寸評の書き方はお見事。

橘木「『21世紀の資本』の衝撃」
『21世紀の資本』まとめとしては簡潔で優れている。
また、日本ではてっぺんばかりでなく、中流、下層部の中でも格差拡大がでて重要という指摘は、格差研究者の知見として重要だと思う。
内容的には、アンチョコとしても昨日見た池田本読むよりこっちを読めという感じ(ちょっとむずかしいかもしれないけど)

サンプル5:http://d.hatena.ne.jp/smasuda/20141125

これがサンプル2に似た感触なのは、学会の公式文書だからなのかもしれないけれど、こちらも奇しくも1つの段落に文が3つの構成になっている。散文なのだけれどもガチっと拘束具で固めたようなリズムがある。

本ワークショップでは、この事件から浮かび上がる諸問題を討議する。
「受苦し苦悩する偉大なアーティスト」という大時代的な物語が商業的な成功を生み出す構図がここまで端的に示され、また瓦解した例は稀であろう。
事後、マスメディアや識者からさまざまに「騙されていたこと」への反省が示されたが、むしろ「受苦し苦悩する偉大なアーティスト」の存在を歓迎し、過剰な物語化を進んで行なうわれわれの文化受容のロマンティックな土壌こそが佐村河内氏を生んだ、とはいえまいか。

あたかも欧文の構文をそのまま残して翻訳したかのような日本語の文章ってあるじゃないですか。

善し悪しは別にして、欧文を読み書きする経験なしに、こういうのを習得できるものなのか。こういう文体は、意識的に着脱可能なのか。

「欧文脈」と言ってしまいたい気がするんですよね。この概念のオペレ〜ショナル・ディフィニショ〜ンは誰か考えてください(笑)。

[だからどうした、と言われても、別にオチはないのですが、スーパーグローバルとか卓越とかそういうのは、こういう「欧文脈」を封じようとしているのかなあ、という気がしないでもない。

21世紀の人文には、柄谷でもなくキラキラでもないやり方でこの雪隠詰めを抜けることが求められているのかもしれぬ。]