ローマ字と漢字とカタカナの造語のしくみ

「relativism」と「相対主義」のズレを考えているうちに思いついたのだけれど、ローマ字の書記システムは、relativism が relate から派生して……というようなことが文字面でわかるようになっている。music のようにラテン語の向こうにギリシャが透けて見えるケースもあって、背景にあるコンテクストを背負いながら語彙を選択している感じになる。

人名も、オーギュストがローマ皇帝だったり、マシューが新約聖書だったりするから、同じようなところがありそう。

でも、漢字で造語するときは、かつては漢籍に典拠を求める漢文脈があり(元号は「平成」も漢籍から選んだと説明されてましたよね)、明治以後は、欧文邦訳で「relative → 相対」と対応づける欧文脈があるけれど、表意文字なので、ひとたび熟語化すると、文字面が一人歩きする率が高いし、そういう風に外来のものを混ぜ合わせて乱反射させるのが日本という場所の特性だ、という風に言えないこともないのかもしれない。

そうして、だからこそ「相対主義」が当初予期しない意味を吸い込みすぎて使いにくくなったときには、リセットしちゃって「関係主義」なり何なりという風に言葉を作り直してもいいような気がする。日本語の欧文脈というのはそういうもんだ。

一方、できるビジネスマンであったり、キラキラであったり、官僚ニューエイジであったりするのかもしれないカタカナの新語・造語は、また違ったテイストを日本語に投入しますよね。長すぎて使いにくいからすぐに略語化される、みたいのを含めてのカタカナ文脈なのかな、という気もするし(Los Angelesがロサンゼルスからロスになったり、マック/マクドで関東と関西がどうしたこうした、とか、エスノメソドロジーがEMでバイ菌扱いされる、とか、ポモとかカルスタ・ポスコロとか、反帝反スタとか)。

たぶん、カタカナ造語のあれこれは、漢文脈、欧文脈と対比して言えば、やっぱりアメリカ文脈、米文脈なんでしょうねえ。