人間の限界

もし、できあがった作品が優れたものであるならば、誰がつくったかはどうでもよいことなのだ(もちろん、盗作はいけないが)。

誰がつくったかはどうでもよい ( イラストレーション ) - Le plaisir de la musique 音楽の歓び - Yahoo!ブログ

彼はときどき、こう主張するのだけれど、私は、この主張は無効だと思う。

「誰がつくったか」などということがどうでもいいような優れた作品、という境地を仮定するのはいい。でも、その境地は実現可能なのだろうか。私は不可能だと思う。なぜか、人間は、そんな完璧な作品を創るようには生まれついていないからだ。

言い方を変えてみる。

人間は、自分では創ることができないような完璧・完全な状態を思考し、想定できてしまう。しかし一方、現実にそこに存在する作品が完璧・完全であると確定する手段を授かってはいない(たぶん)。

だから、いつまでたっても、

「ここはもうちょっとこうやればいいのに、なんでこんな風にしちゃったんだろうねえ。誰だよ、これを創ったのは!」

とワアワア言い続ける。

たぶん、この状態は、ずっと変わらないと思う。

上の主張は、夢のなかで完璧な作品を完成させて、目が覚めたらそれが具体的にどういうものだったのか思い出せない、というのと同じことだと思う。

理念ってのはそういうもんだ。

(それにしても、彼だけじゃないが、テロリスト(に依存せざるを得なくなった時点で既にその主張はもはや望みがない、テロとは絶望の表現なのだと思うのだけれど)の詳細な情報にやたらと興味を抱く、というのはどういう心の動きなのだろう。)