fundamental

fundamentalism は論争において相手を貶める蔑称として出てきた語彙で、fundament が土台、principle のほうは prince などとも語義につながりがある最優先条項の意味合いであることを勘案すると、

第一人者 principal の発言・宣言を最優先条項 principle として字義どおりに受け止める立場に対して、「てめえらのやってることは、地べた fundament に頭をこすりつける土民の習俗じゃねえか」と、これを認めない立場の者が罵声を浴びせているわけだ。

(土台・足下 bottom を低く見るかのような言葉遣いはどぎついなあ、と思うけれど、fundamentalism の語は、そういうニュアンス込みで流通しているようだ。激烈な言葉だと思う。)

キリスト教文化圏に、聖書を字義どおりに受け止めるべきと主張する人々のことを fundamentalism と批判する文脈があって、

そのうち、「内輪揉めしてる場合じゃねえよ、イスラムを見ろ。あいつらのほうこそ fundamentalism じゃないか」と、論争を政治利用するワルモノが出てきて、「聖戦」と称する武力行使が実現してしまった。

こうなると、武力行使を阻止するためには手段を選んでいる場合じゃない、とばかりに、批判勢力が新しい手を考えた。

「あの政治家とその取り巻きのやっていることは聖戦ではない。損得勘定が裏にある商売。いってみれば、宗教上の fundamentalism を隠れ蓑にした拝金主義 market fundamentalism だ」と切り返すプロパガンダのはじまり。ネオリベが fundamentalism 呼ばわりされるに至った経緯は、ほぼそういうことですよね。

fundamentalism という語が投入されたことで起きているのは、キリスト教内の議論がイスラムを巻き込み、政治・経済が延焼する負の連鎖なのだと思う。

英国の An Act Declaring the Rights and Liberties of the Subject (権利の章典、ですか)あたりに由来する思想を強引に「原理主義」とみなして、言論活動に負の連鎖を持ち込もうとするかのような文言を先日見つけたが、

言語行為論じゃないけれど、action や declaration は、fundament に固着しないためにこそ動く、罵声を鎮めるためにこそ、しかるべき者がしかるべきときに声を発する、ということであるはず。共和国は一声を発する君主がいないんだから、「国民」が広場に集まるしかあるまい。

aciton や declaration の効力を疑問視する、という立場はあり得るかもしれないし、実際、今フランスで起きていることは、ペンで剣に対抗しているというよりも、緊急時の強制力を伴う治安維持活動に見える。それ以上でも以下でもない。

(イスラム全般への反感が高まっている云々とか、当該風刺画を私は好む/好まないとか、派生した諸々は、別途やるしかあるまい。)

いずれにしても「表現の自由原理主義」という日本語の文字列は、翻訳不能な気がします。

(それとさ、フランスの一連の経緯にひきかえ日本のこれはどうなんだ論、いやいやそれはそういうことじゃなくて論は、フランスをいちいち引き合いにださずに単体でやればいいんだと思う。変数を増やしても話が錯綜するだけじゃん。つながらないものを無理につなげて、いっちょ噛んどこう、とか、極東の土民はやることがセコいぜ。第一次世界大戦のときも、対岸の火事で似たような感じだったようだが。)