江戸しぐさ、ならぬ、城下町の欧文脈のしぐさ

http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/26371425.html

書き言葉の句点が標準化されるのは、欧米語でもかなりあとのことだったはず。

とりあえず、概略はこんな感じでいいはず。↓

http://www.rondely.com/zakkaya/his/gra2.htm

そして今日「文法」として伝承されている説明の集積は、言語にあらかじめ備わっている法則というよりも、それぞれの言語について、各国が(各国のアカデミズムが)策定した正書法を正当化するための、端的に言えば「後付け」(よく言っても「発見的」な仮説)なんだと思う。

(音楽史に通じている人であれば、「和声や対位法の歴史と似たような経緯だな」と得心がいくはず。そして一方、言語の法則性をどのように定式化できるか、というのは、これとは別に、言語学で色々議論や学説がありますよね。)

書き言葉の作法とはそういうもの。

むしろ、「時々思い出したように[,]を打ってある」状態のほうが普通で、ドイツ語のように各種の語尾の変化などを含めて、今日に至るまで正書法や正規の話し方をラテン語に似せ続けているほうが珍しい。

(日本語の句点は、そんな欧米語の書法のマネですよね。導入されたのは明治以後だし。

で、私は、同じ単語であってもフランス文脈、ドイツ文脈、英米文脈でカタカナ表記が変化する現行の日本語の慣習(シャルル・マーニョとカール・マルクスとチャールズ皇太子とか)は、まるで、自国語をラテン語に似せて神聖ローマ帝国を名乗るドイツ人みたいだなあ、と思う。現代日本語の外来語には、「格変化」ならぬ「国籍変化」がある(笑)。)

現在の正書法で整えて印刷された書物(の活字面)だけが言語であるかのように思いなすのって、録音物を自宅で聴くだけで音楽をわかっているつもりになるのに似ていて、かなり無謀だよなあ、と思う。

しゃちこばって「美しく正しい日本語」を信奉するのは、失われた文化帝国ニッポンへの忠誠を誓う臣民、みたいになっちゃいますよねえ……。失われた楽園(←非実在)へのノスタルジーが発生しないと心がときめかない失楽園シンドロームは、なんとなく、加賀百万石前田侯爵家(←駒場公園のなかにものすごく立派な洋館のお屋敷が残っているそうですね)への思いっぽい感じなんだよねえ。

三谷幸喜も、いわゆる「歴史三部作」や戦国時代劇映画を経て、ニッポンの侯爵や伯爵や大佐や執事が登場する特別急行東洋とか、そのあたりに時代劇とも赤毛ものとも違う、第三のコスチューム・プレイ(三島由紀夫が好んだ世界でもありますね)の鉱脈を見いだしているようだし、プリンセス・トヨトミの映画版は、フジテレビが大阪ものを無理矢理このテイストに引き寄せちゃったところがあるんじゃないか。大阪国首相・中井貴一、とか。(そういえば、特急東洋には「あおによし」の鹿男も乗ってたね(笑)。)

還らぬ時と郷愁 (ポリロゴス叢書)

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美学方面には、旧城下町出身の青年がジャンケレヴィッチを好む、という地下水脈があったように思う。今もこの水脈は健在なのだろうか。

OGT244 リヒャルト・シュトラウス 四つの最後の歌 (OGT 244 MINIATURE SCORES)

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年末のNHKの回顧番組で改めて不思議な感銘を受けてしまったのだけれど、今はそういう地下水脈は、髪型とかファッションとか、存在自体がコスプレ化していく傾向なのかしら……。