「天下の新国立劇場の上演水準」

これが地方のオペラだったら「非常に頑張っている」と称賛もできようが、天下の新国立劇場の上演水準とは言えない。

東条碩夫のコンサート日記 1・21(水)新国立劇場 ワーグナー:「さまよえるオランダ人」(2日目)

この人は結局これだよ(笑)。

演出を叩いて、演奏は良かったと持ち上げることでバランスを取ろうというわけだが、演出のどこがダメか、の論拠と、演奏のどこが良かったか、の論拠がかみ合ってない。

演出をそういう理由でダメだと言ってしまうと、じゃあどうして演奏を良いと判断できてしまっているのか、ということになる。

仮に「天下の新国立劇場の上演水準」というものがあるとして、「良き時代の伝統を引き継ぐ、温かい、ヒューマンな音楽のスタイル」がそれに値するのかどうか。

そもそも

「良き時代の伝統を引き継ぐ、温かい、ヒューマンな音楽のスタイル」

なる言葉遣いは、たとえば朝比奈隆存命中のCDを語る昔のレコード芸術の批評などにしばしば見られたわけだが、何もいうことが思い浮かばないときに使われる批評のクリシェなのは、今や周知と言うべきだろう。(もう、朝比奈隆をこのような語彙で語る人はいまい。)

このような語彙で誉められたら、指揮者が憐れだね。

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これが地方に派遣された新人記者の作文だったとしても、もはや「非常に頑張っている」と称賛できそうにないし、まして、「天下の新国立劇場」(とはしかしいったい何なのか、この劇場にどこの天下を取らせたいというのか、その天下なるものを本当に取れるのか?)と切り結ぶ批評の水準とは言えない。

……というようなことになりはしないか(笑)。