家庭の問題

リヒャルト・シュトラウスは、スピンアウトのピアノ協奏曲まで書いたくらいだから、「家庭交響曲」をほんとに気に入っていたんでしょうね。別に「ばらの騎士」で突然、脱前衛を宣言したわけじゃなく、こういう人なんでしょう。

天下国家に一喜一憂するテレビの人々、とか、「学問とは」「真理とは」はたまた「名曲とは」と大問題を語ろうとして見事にバカになっていくつぶやきの数々[リンクしない]をみていると、家庭の問題のほうが大事だよねえ、と思う父の三回忌。母と墓参りのあと黙々と試験を採点する一日。

(ちゃんと楽譜を読んだわけではないけれど、きっと家庭交響曲は構成もかなり熟達してますよね。作曲は技術だから、力のある人は書けば書くだけ上手くなる。チャイコフスキーだってそうだろう。家庭交響曲こそが真の名曲であり、ドン・ファンやティルばかりがもてはやされるのは嘆かわしい、と、嘆かわしがらなければいけないのだろうか。

真と信とかいきなり言われても、誰を煙にまこうとしてやがるんでい、としか思わないし(論文の査読か何かやってるのかしら)[繰り返すが、もうリンクしない]、官僚批判で大学人が溜飲を下げるステージはもうとうの昔に過ぎたと思うが[同上]、作曲家の成長と、何が名曲ともてはやされるか、というのはごく普通に並び立つ話で、不整合にいらつくことじゃないよね。

大栗裕は、バーレスクや仮面幻想のほうが圧倒的に優れていると思うけれど、俗謡が「名曲」扱い、別にそれで誰が困るのかよくわからない。「チャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番は素晴らしい作品だ。おわり」では短すぎるというのであれば、素晴らしさの所以を掘り下げたらいいのに。それが上手くできずにもどかしいからといって、他の「名曲」に八つ当たりしてはいけない(笑)。)