オルフと寺子屋

大栗裕が「カルミナ・ブラーナ」に言及している文章を見つけて、なるほど、いかにも興味を持ちそうだよなあ、と思って以来気になっているのですが、

オルフ(1895-1982)が1913年17歳で書いた最初のオペラは「寺子屋」の独訳台本に作曲した「Gisei」というものだったんですね。

ダルムシュタットで2010年に作曲から97年目に初演されたのが産経新聞で記事になった……のを先ほど知って、記事には横原さんがコメントしていて、二度びっくり。(DVD化されているようですね。)

弦楽四重奏断片と呼ばれている曲が1914年だから、オペラのほうも、ドビュッシーとシェーンベルクをちょっとずつ薄めて混ぜたような作風なのでしょうか。

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産経の記事ではカーリュー・リヴァーより半世紀も早く日本の伝統芸能がオペラになっていた、という切り口ですが、世紀転換期のオペラにおける極東受容については、1997年に Peter Revers の教授資格論文がある(Google Books で読めるのだから、便利な世の中ではある)。

1901年に「寺子屋」の独訳が出版されていて、オルフだけでなくワインガルトナーもこれに作曲していて、ツェムリンスキーにも関連した作品があったり、色々面白そうです。

Revers はミュンヘンの図書館でオルフの手稿譜を調べて書いたようで、もっと遡ると台湾からハイデルベルクに留学していた Kii-Ming Lo が1988年にトゥーランドットで博士論文をまとめたらしい。どうやら80年代後半からドイツの音楽学は有望な研究テーマの熾烈な争奪戦みたいになっていたらしく、オペラにおける極東では、まずはメジャーなプッチーニで中国が攻略されて、次に日本、と、まるでイエズス会の布教活動の反復みたいなことになっていたようだ。

院生時代にそうと知っていれば何かが違っていたのかなあ、と今から考えても仕方がありませんが、Kii-Ming Lo がウェーバーのほうのトゥーランドット(のちにヒンデミットが「交響的変容」の2楽章で笛の曲を使っている)について1986年のシンポジウムで発表した論文は読んでいたのに、と思ってしまったりもする。

まあしかし、ドイツのほうでも、そうやって80年代90年代に、まずは音楽学者がこのあたりを「発掘」して、そういう地ならしがあったからこそ、2010年にマインツのショット社が Gisei を出版しつつ近所のダルムシュタットの劇場と提携して上演したのでしょうから、埋もれた作品が人目に触れるまでには時間がかかる。特にオペラのような大きなものは、上演にゴー・サインが出るところまで行くのは大変そうです。

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「カルミナ」の人になるまでに、第一次大戦後は「オルフェオ」を編曲したり、「真夏の夜の夢」の劇音楽みたいのがあったりして、すぐにあのオルフ・スタイルになったわけでもない。

亡くなったのは1982年3月29日なので、大栗裕のひと月ほど前。2012年は、オルフの没後30年でもあったんですね。

「カルミナ」が、いつの間にかそのあとに2つくっつけて三部作「勝利」になっちゃって、最後はカラヤンが初演した「時の終わりの劇」ですよね。ダルムシュタットでは、この最後のオペラが、最初のオペラ「犠牲」とあわせて上演されたそうですが、1930年代に世に出た作曲家は、メシアンもオルフも長生きして、なおかつ、すごいところへ行っちゃいますねえ。