「大学人のなり損ない」とは何者か

「人文系大学人(またはそのなり損ない)」という文言を見つけて、この言い回しはどのような範囲を指しているのか、考え始めると存外ややこしそうなので、とりあえず「人文系」を外してみることにした。

「大学人」と「大学人のなり損ない」

「大学人」が何を指すか、これはわかりやすい。

では、「大学人のなり損ない」とは何を指すのか?

そうすると、結構話は面倒になる。

第二次世界大戦後の日本の学制では、「音楽大学」「美術大学」「防衛大学校(!)」など大学には色々あるし、「神学専攻」や「仏教学専攻」というのもありそうだ(ちゃんと調べてはいないけど)。

ユニヴァーシティもカレッジもアカデミーもコンセルヴァトワールも、場合によっては、修道院や寺や神社の機能の一部も、今の日本では「大学」になっているかのように見える。

どうしてこうなったかというと、小中高を年齢で輪切りに一元化して、その先の10代終わりから20代始めの年齢が「高等教育」の時期ということになり、なおかつ、そのような高等教育機関は、ぜんぶまとめて「大学」という名称・制度で一元管理するように誘導したからだろうと思います。

これがニッポンの独創性あふれる教育行政なのか、何らかのモデルがあったり、何らかの世界史的動向に乗っていたのか、そこまでは私にはわかりませんが、ともかく、そうなっている。

でも、これがすべて、というわけでもない。

こういう輪切りの学制ができた当初は、まだ進学率がそれほど高くなくて、中卒高卒で「大学」相当の年齢を職場・会社で過ごした人も少なくないはずだし、高度成長で終身雇用が確立していった時期ですし、職場・会社は、そういう人たちを「育てる」しくみを自前で整備したとされていますよね。

現在の「財界」のオピニオンリーダーさんには、そろそろそういう時代の人が減って来つつあるのかもしれませんが、「財界」さんが「大学は民間企業に学ぶべし」とスローガンをぶちあげたときに、そうだそうだ、と賛同されてしまう背景に、そういう風に職場や会社に育てられたという思いを抱く人たちがいそうな感じは、大なり小なりありますよね。

だとすると、「大学人のなり損ない」(でなおかつ大学について何か物を言いたい人)の広がりは、ここまでを含むと言えるかもしれない。

大学で高等教育を受けるかわりに職場・会社に育てられた人たちもまた、「大学人のなり損ない」の一大勢力かもしれない、ということです。

      • -

でも、さすがにこれは話が広がりすぎる。

それじゃあ「大学」までたどりついた人たちの集合に範囲を絞るとどうなるか。

「大学」の上には「大学院」があるので、大学入学者のその後の人生を3つに場合分けしてみる。

  • (a) 大学を卒業してすぐ、もしくはその後大学院に進学したのち、大学教員に採用される
  • (b) 大学から大学院に進学して大学教員以外の職に就く
  • (c) 大学を卒業して大学教員以外の職に就く

(a)が「大学人」で、(b)と(c)が「大学人のなり損ない」ですが、数で言うと、(c)が圧倒的に多いですから、大学進学者の大半が「大学人のなり損ない」です。

つまり、「大学人」vs「大学人のなり損ない」という対決の構図を思い描こうとすると、めちゃくちゃ多勢に無勢、ということになってしまいます。

しかも、最初に述べたように、日本は「なんでも大学」状態になっていますから、事情も様々なことでありましょう。

      • -

まあしかし、通常、頭のいい人は、こんな風に乱暴に広範囲に喧嘩を売ることはないので、さらに範囲を絞っているつもりなのだろうと思う。

「大学人のなり損ない」とはすなわち上記(b)、大学院進学者のうち、大学以外に就職した者を指すと思われます。

そしてここまで範囲を絞ってようやく、「なり損ない」という語の不穏な感じが何に由来するかが見えてくる。

大卒で大学以外に就職した者の多くは、最初っから「大学人」になりたいとは思っていない者が多いでしょうから、別に自分のことを「大学人のなり損ない」とは思っていないだろうし、そのように言われても、「何言ってるんだコイツ」だと思う。

大学院進学者を想定してようやく、「なり損ない」の語が意味をもつ。

大学人は、大学院で一緒に机を並べて学んだ者たちを思い浮かべながら、「オレはあいつらに勝った」「あいつらはおれに負けた」みたいに考えており、それゆえに、大学人は、大学院を出て大学以外に就職した者を「なり損ない」と呼ぶ

そいう構図ですね。

      • -

……でも、大学論にこんなセコい勝ち負け絡みの語彙を持ち込んで、それが何か有益な結果をもたらすのだろうか?

アカハラは、大学在籍中の問題で、大学の外に出たら、ひとまず直接の実害はないと想定されます。

でも、ひとたび大学院に在籍してしまうと、そのあとも一生、「大学人のなり損ない」呼ばわりされてしまうのだとしたら、これはもう、一種の職業差別ではないのか。

      • -

私は、「大学人」がしかるべき敬意を払われるべきだと思います。でも、それは主として知・学問への敬意、それこそギリシャ哲学で言う「魂の不滅」みたいなものだ。

知・学問の魂を宿す生体である限りにおいて大学人は尊敬される。それ以上でも以下でもない。

日本あるいは世界の総人口に占める「大学人」の割合がどれくらいなのか、私は知りませんが、まあ、人類の大半は「非大学人」ですから、知・学問の魂を宿す生体の「なり損ない」なのでしょう。そして、幸運にしてそのような魂を宿すことに成功したとしても、その生体は100年以内に必ず死にます。

職業とは、何であれその程度のものだ。

そして、だからこそ、その職に就いた者はちゃんとしようと思う。そういうことですよね。

で、しかし、「不滅の魂」などというものが私の肉体に宿ってしまった、ということになると、よほど強靱な人でなければ耐えがたい。凡人には苦しいから、サラリーマンという経済のしくみを噛ませて、現在の多くの社会・文化では、少なくとも知・学問に関しては、「不滅の魂」が宿っているオンの時間と、そういうことを忘れてもかまわないオフの時間の切り替えを許容するようになっている。

(そしてオン・オフの切り替えで「不滅の魂」を安全に取り扱う手法は、大学以外で生業を営む者が、オフタイムに「不滅の魂」を宿して学問する、という事例を安全に取り扱うことにも道を開く。仕事スイッチをオンにしたときだけ学問する人も、仕事スイッチがオフのときだけ学問をする人も、同じ学問に変わりはないのだから、協力すればいいじゃない、ということだ。)

経済が大事というのは、おそらくそのような意味においてであると私は理解しているのだが、違うのか。