能力は嫉妬の対象か?

「民間」は人を選ぶ。「公共」は万人に開かれている。

この違いだけはいかんともしがたいのではなかろうか。

夏目漱石の倫敦塔の「二個の者が same space ヲ occupy スル訳には行かぬ」というやつだ。

選ばれた者に対して猛烈な嫉妬に狂う、という熱い振る舞いもあり、傍目に・あるいは経験的に、「見ていられないからもうヤメテ」ということもあろうが、

かなりの程度に能力主義が徹底されている、と信じられている領域では、選ばれなかった者が抱く思いは、嫉妬、とは少々違っていたりもしますよね。

たとえば、東大受験合格者を不合格者が「嫉妬する」、というのは、あまり聞かない。

(京大生のなかには、なぜだか知らないけれども奇妙に屈折した思いを抱く人がいて、思わず、門を赤く塗りたくなってしまうことがあるようだが(苦笑)、東の国家の首都の大学は、千年の都にふさわしい帝国の大学、みたいな理念・怨念が良くも悪くも染みついている西の大学とは別物なのだから、ちょっかいを出すことに大した意味があるとは思えぬ。)

ただし、学力と階級・文化資本の知られざる相関関係を喧伝して、学歴の差を「格差」の兆候と意味づければ、学歴を「嫉妬」の対象へと再編成することもできるわけだから、ニュー・レフトとは、能力主義すら「嫉妬」の炎で焼き尽くそうとする過激派革命勢力、だったのかもしれないが、この種の議論は「嫉妬」の濫用、なんとしても「嫉妬」の炎を絶やしてはならない、とする新趣向のドラッグであったようにも思われる。

こうした極端さの彩りを時折含みつつ(笑)、何をどう選ぶか、何をどこで何故選ぶのか、という軸で文化・文明が形成されることがあるし、現実にヒトはそのようにしてきた。そのことは否認できまい。「人間的な、あまりに人間的な」世界とは、そういうものではないか。

何も選ばず、すべてが万人に開かれている状態は、そこから反作用的に見いだされてしまったユートピアなのだろう。

だが、フェアである、とは、何も選ばず、すべてを肯定する、ということではないはずだ。

どうしても煩悩愚足の渡世が息苦しいというのであれば、愛の宗教とは別に、無縁の仏門、というメニューも、この世界には用意されているのだから、必要なときには、この選択肢も検討してみたらいい、

そしてこの俗世では、選ぶべきときには、悪びれることなく選べばよい。