identify as a universe

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150315/p2

↑の続きで、まず宮本さんの教養としての音楽の本を読み直して、そこではAMZに至る18世紀のunivesal/general/allgemein概念のある種のヤバさへの直接的な言及がないらしいことを確認したうえで、三巻本のはじめのほうの関連しそうなところをあっちこっち拾い読みしてみました。

そもそも、「音楽の国ドイツ」という観念自体が、音楽(器楽)における

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なのだ、という著者の主張というか仮説があるわけですね。ドイツはユニヴァーサルである、と。英語として変かもしれませんが……。でも、そういう話なのだと考えれば、シンボルとイコンが重なり合って、という記号論とも話がつながる。

「世界へ同一化する私(たち)」というと、政治の領域では、おそらく、United States とか、Union of Soviet Socialist Republics のような固有名を含まない国家の名称がこれと似ているのかもしれませんが、世界システムでヘゲモニーを握ろうとすると、「オレが世界だ」みたいな状態にたどりつかねばならないことになっている、ということなのでしょう。

で、帝国主義の起源を書くように、「音楽の国」の成り立ちを綴ろうとすると、ああいう三巻本になる。そういう仕掛けになっているんですね。

表看板としては、ドイツの音楽文献が「音楽におけるドイツ」をどのように語ってきたか、という風に deutsch の語が主役というか主題なのだけれども、そのような主題を主題として成り立たせる舞台というか環境として、常に同時に、universal/general/allgemein の話だとも言える。

なるほどそう考えると、allgemein が「一般」では日本語として弱そうだし、allgemeine Sprache der Empfindungen (Forkel) は「感情の普遍言語」で日本語として通りがいい。でも、そうかといって、AMZ を「普遍音楽新聞」と訳すと、何やら、虚構新聞の親戚筋みたいですから、「普遍」と「一般」の使い分けは、どこまでも悩ましく、決め手はないのかもしれませんね。

個(deutsch)と全体(universe)が互いを規定する構造は、おそらくドイツの得意技で、主題と形式の関係とか、色んなところにすぐにこれが出てきますね。

私は、もうあまりにも煩わしいので、「餅は餅屋」、このあたりのことはドイツ人に自分で説明させて、こっちは、はあ、そうですか、ご立派なことですなあ、と相づちを打つくらいでええんとちゃうか。ドイツの勘所はおおよそわかったので、そういう風な構造が発動しない場所、別の構造が見つかりそうなことをやったほうが楽しそうだと思って今日に至っていますが、確かに、これに取り組むと、ものすごい力試しになるのはわかる。

三巻本+ワーグナー、都合本4冊分これに関わったのだから、まあ、ものすごい怪力や。