神話の現状

さっきはじめて、第1巻の序章を通読した。

序章の前半は本が出てすぐに読んで、感想を書いたが、正直言うと、読みながらウンザリして、もういいやとその先を読まずに、飛ばして本論へ進んでいたのである。

なぜウンザリしたかというと、この本とシリーズを立案するきっかけになったとされる過去数十年のドイツ音楽をめぐる「神話批判」の事細かな紹介を読んでいると、嫌になってくるからである。

では、なぜ「神話批判」につきあうのが嫌かというと、

第一に、まさにこの種の議論が世界各地でさかんであったらしい1980年代に、こちとら山口修の民族音楽ゼミで、理不尽なくらいその話を聞かされまくっており、もうたくさんだ、の心境だからである。彼は学会の全国大会でも、まるでフェミニズムにおける田嶋陽子のように何に遠慮することもなく毎回毎回、西洋中心主義を批判し続けていたから、こういう議論はもうみんな、よく知っている。ニューミュージコロジーは、生まれながらに既視感バリバリで、だから誰も取り合わなかったのである。

そして第二に、今回改めて読んでわかったのだが、「なぜ○○という研究をあなたたちはやってこなかったのか」という話法による糾弾は、「ないこと」についての証明・説明を求める形式=悪魔の証明になっており、アンフェアだと思うのである。

「ないものはない」としか言いようがない。その時点では、そういうものだったのである。

謝れというならゴメンナサイだが、それで何が変わりますか?

それが「ない」のままで放置することはできない、それは「ある」べきである、というのであれば、いつまでも「ある」か「ない」かの認否を議論するのではなく、ないなら、さっさとやればいいではないか、糾弾している暇があったら、手を動かせ、と思うのである。

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というわけで、読んでいるうちに腹が立って、とても読み進めることができなかったのである。

そして、相対的に優秀でマトモである、と信じていた吉田寛ですら、満を持して世に問うシリーズ本をこのような「神話批判」から始めるのか、と、今さらながらにゼロ年代の日本の人文科学の貧しさに淫するかの如き風土にほとんど絶望してしまった、というのもあったと思う。だから、最初に読んだときに、かなり強い調子で批判的な感想を書いた。「キミはこんなことがやりたくて学者になったのか、見損なった」と問い詰めたかったのである。

でも、シリーズが完結して、最後のほうでどういう話になるのか、ということがわかり、そこまで酷い内容ではないことが確認できたので、改めて、覚悟を決めて第1巻の序章に再チャレンジしたのである。

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そうしたら、やっぱり読みながらどんどん嫌な気持ちになったわけだが、それでも序章の最後、第6節で、いきなり議論が「転調」していることを知った。

ここでようやく、「ユニヴァースへ同一化することこそがドイツ的である」という話が、アドルノを引用しながら手際良くまとめられていた。第2, 3巻を読みながら、おそらくこの仮説が肝心なところなのだろう、と当たりをつけたのは、やはり、間違っていなかったらしいと安心した。

また、この本の目的は神話批判“ではない”、ということも、明確に宣言されていた。

「ユニヴァースへ同一化することこそがドイツ的である」という仮説を立てれば、神話が神話であるにもかかわらず、あたかも神話ではないかのように機能してしまう状況をうまく説明できるわけだから、これも納得できるところである。

(だったら、最初にそう書いてよ、神話批判好きな人たちを釣り込もうとするかのような長い長いここまでの不愉快な文章は何だったのか、と思うけどね。この仮説をどういう風に研究史に位置づけるか、説明が難しそうだとは思いますが……。)

ただし、注で、渡辺裕「聴衆の誕生」や、輪島祐介の演歌論も、決して神話批判を目的とする本ではないのである、と学派をまとめて擁護するのは、どうなんだろう、とは思った。

それから、「もし神話の批判と解体を目指すのであれば、20世紀の教育制度などをターゲットとする研究を立案したことであろう」というような半実仮想話法が挿入されているが、

現状がどうなっているかというと、クラシック音楽業界では、むしろ神話がボロボロと自壊しつつあるように思う。「ドイツ音楽を正典にふさわしくユニヴァーサルに取り扱う」というような作法がどんどん形骸化して、そういうのを求める人は、ライヴに行ったり新譜を買うより、過去の名曲名演奏のレコードを繰り返し家で聞く方を好んでいるように見える。

「私は、神話を一方的に批判したり、その解体にコミットするのではなく、それがいかに機能しているかを観察します」

という態度は、良心的な学者の慎み、というより、今となっては、

「何を悠長なことをいつまでもこの人は言っているのであろう。事態はこの10年で、随分変わってしまっているのに」

だと思います。

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当面は、ドイツ音楽神話なるものが瀕死のボロボロになるまで、これをイジメ続けて神話批判を続けたい人がいるのかもしれず、そっちの文脈で引用・言及される可能性が高そうな気がするが、そういうのが一段落しているであろう10年後20年後には、「ドイツ音楽とは何だったのか?」というベタな関心から読まれることになるんじゃないでしょうか。

そしておそらく、そういう読み方をされるのが、著者の本望なんですよね、たぶん。