学者の二枚腰(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』)

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

長年腑に落ちなかったある種の書物の読み方がわかったような気がするので、小田中直樹『歴史学ってなんだ?』を再読してみる。

      • -

歴史学ははたして危機に瀕しているのか、という調子で2004年に書かれた本ですが、そこで歴史学の危機とされる事柄は2つあって、

  • 第1章 [歴史学は]史実を明らかにできるのか
  • 第2章 歴史学は社会の役に立つのか

第1章で深刻な危機扱いされているのは、言語論的転回もしくは構造主義の台頭で、そもそも史実の認識、というより、認識一般の恣意性が問題になっているようだ、という話。

そして第2章は、従軍慰安婦問題を取り上げて、実証史学は、歴史修正主義とPC(ここではある種のフェミニズム)の前で無力なのではないか、というような話。

ただし、刊行から10年後に再読して一層奇異に思えるのは、構造主義とは何か、の説明で引用されるのが内田樹だということ。

そこで引かれている文言は、ほとんど「存在が意識を規定する」というマルクス主義風の格言の域を出ていなかったりする。

第2章も、歴史修正主義はともかく、フェミニズム社会学として名前が出るのは上野千鶴子で、こうしたまとめ方の当否はともかく、当事者の証言の強度(剣幕)を前にすると、史料(証拠)の有無など吹き飛んでしまいそうだ、という感じに事態が記述されている。

前半の2章を読むと、もはや歴史学は風前の灯火なのか、という感じではあるのだけれども、危機の元凶が内田、上野のご両人というのは、ちょっと考え込んでしまいます。

(出てすぐに買ったが、このあたりまで来て、著者は譲歩しすぎではないか、言うべきことをもっとはっきり言わないダメなのではないかと思って、私は途中で読むのを止めてしまった。)

      • -

でも、後半で巻き返すんですね。

第3章(「歴史家は何をしているか」)は、世間に逆風が吹こうが、我々の日日の務めは変わりません、という調子で歴史学の初歩の手ほどきをして、

終章は、とても短いのだけれど、まず上記第2章の、歴史は何の役に立つのか、ということに関して、近年は「物語と記憶」を重視する立場が有力になりつつあって、しかしその立場は、突き詰めていくと現在の我々にとって都合のいいストーリーを紡ぎ、現実であろうが虚構であろうが、当事者の記憶を最大限尊重するしかなくなるだろうことを指摘する。

それは、一見良識的な考え方かもしれないけれど、著者はこういう風に反論する。

こういったことは認めたうえで、でも、ぼくは、「物語と記憶」という枠組みにどこか違和感をもちます。それは、「物語と記憶」という枠組みが「真実性という基準」を無視しているからです。というよりも、「真実性という基準」を絶対視し、「100パーセント真実でなければ、すべて物語だ」と考えるという、「オール・オア・ナッシング」の立場をとっているからだ、というべきかもしれません。(184頁)

とくに後段の指摘、歴史が「物語と記憶」に解消されてもしかたがないとする発想は、実は「真実」というものを、疑っているのではなく、過剰に厳格に絶対視してしまっているのではないか、という風になっていて、とっておきの「決め球」感がある。

(震災のあと、益々「物語と記憶」に依存する人たちが出てきてしまっていることや、従軍慰安婦問題のその後を知っている現在の視点から、色々考えたくなりますね。)

「赤」の誘惑―フィクション論序説

「赤」の誘惑―フィクション論序説

「真実」の過剰な絶対視、「オール・オア・ナッシング」のフィクション論への疑念、というところは、「赤い分析哲学」に嫌みを言う蓮實重彦とちょっと似ている。

      • -

この本の「二枚腰」な感じが、刊行当時は読めなかったんですよね。

まず言いたい人には言わせておいて、辛抱強くそこを乗り越えて最後までたどりついた人だけが、著者の本音というか、とっておきの反論に接することができる。どうやらこの本は、そういうお作法でまとめられているようです。

最初に要点を言って、あとから補足するのがディベートの必勝法だ、というのとは真逆なんですね。

そういう話法を保っているから、「先に言った者勝ち」で口から先に生まれたようなお調子者が世間で好き勝手振る舞ってしまったのではないか、とも思うし、こういう風に最後まで辛抱することで、良識ある人たちがお調子者な人たちと平和的に共存しようとしたのがゼロ年代の風景だったのかもしれないなあ、とも思います。

ゼロ年代にはまだ、大学の先生はとってもお行儀が良かったし、言いたいことがある人たちに、お先にどうぞ、と道を譲っても、最後には自分のところにお鉢が回ってくるはずだ、と、奥ゆかしい予定調和を信じることができた、ということでしょうか……。

      • -

そしてもうひとつ、認識の恣意性を盾に「真実などというものはありはしない」と懐疑を突きつけるタイプの自称・構造主義に対しては、「コミュニケーショナルな正しい認識」(いわば、みんながそれを真実だと了解するものは真実と扱っていいのではないか、という立場)という対案を出し、終章では、歴史学は「コモン・センス」に立脚する「通常科学」(←パラダイムがシフトするまで期間限定で妥当する、とされたトーマス・クーン流科学史の用語ですね)として生き延びる道があるのではないか、と言うのだけれど、これは、さすがに奥ゆかし過ぎる気がしました。

「おじさん内田樹」(←「期間限定」とか大好き)とだったら、おそらく、これで楽しくつきあっていけたのだろうと思いますが(笑)、ソシュールやレヴィ=ストロースはどうなるのか……。

むしろ、一般言語学や構造主義人類学は、人類とは何か、というような大きな問いを立てているわけだから、もはや、歴史学と同じ山に別のルートで登頂しようとして並び立ち得る別の学問ですよね。

言語一般(Cours de linguistique générale 吉田寛先生だったら「普遍言語学講義」と訳すかもしれない general/allgemein です)とか人類の文化全般とかを、一挙に、いわゆる「共時的」に俯瞰しようという企てが構造主義なのだから、歴史は括弧に入れられて消えてしまう。でもそれは、歴史が不要だと言っているのではなくて、歴史として取り扱われてきた事象を別の方法で捉えてみたらどうなるか、というようなことのはず。数論や解析で方程式などを使って論じられてきた問題を幾何学に置き換えて解いてみよう、みたいな話で、幾何学的方法が有効であることが明らかになったからといって、数論や解析が失効するわけではない

……というようなことを思うわけですけれども、

でもひょっとすると、小田中先生は、そんなことは百も承知で、内田氏相手にそんな議論を吹っかけるのは野暮だから、遠慮していらっしゃるのかもしれない。

ゼロ年代半ばというと、小泉郵政改革、ワンフレーズ・ポリティクスの最盛期、各地の改革首長がもてはやされた時代ですが、「憎まれっ子が世に憚った」時代に、こういう風な頭のいい方々の慎重な遠慮は、はたして良かったのか悪かったのか。

10年後の今、思い返して私が気になるのは、そのあたりです。