モーツァルト主義者ブラームス

ヘッセン放送のライブ映像。今や東京の指揮者(なんだかサッカー日本代表監督就任に似た歓迎のされかたですよね)になったヤルヴィとの共演は、立ち居振る舞いから何から先日の来日公演とそっくり同じで、色々考えさせられますが、

第2楽章の最初のところは、オーボエのアップからはじまって、木管の2列目、ファゴット、クラリネット、ホルンをきれいにフレームに収めるカメラ割りになっている。

彼らの演奏姿がすごくいい。(仲間内の音楽特有の親密さを醸し出すには、お互いの顔を寄せ合うような構図のバスト・ショットがぴったり。)

これは何かというと、まぎれもなく管楽セレナードですよね。

楽章が始まるところで、舞台上手奥のカメラがオーケストラ越しに指揮者とヒラリー・ハーンをとらえて、いよいよはじまるぞ、というときにヒラリー様がこっちを見るのも、ナイス・ショット。ヒロインが広い空間の奥から手前に視線を投げかける「絵」がセレナードという特別な音楽を導くわけですね。

このヴァイオリニストにはコルンゴルトがよく似合う、というディズニー/ジブリ的なメルヘンに引きつけて考えると、白雪姫と森の7人のこびとっぽいシーン……はさすがに言い過ぎか(笑)。

(それはともかく、ヒラリー・ハーンの最近のコンチェルト演奏は、こういう風に、オーケストラとの関係を視線や立ち位置を含めて完璧にコーディネートするところまで来ているみたい。コンサートマスター以上にコンマス風ですね。女王様からこういう視線を投げかけられたら、木管チームも、よっしゃ、と思うというものだ。)

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で、管楽セレナードといえば、18世紀末ウィーンのハルモニームジークじゃないですか。この箇所がブラームスのモーツァルトへのオマージュなのは、たぶん、間違いないと思う。ブラームスは、少なくともコンチェルトにおいては、ベートーヴェン主義者というよりモーツァルト主義者だったんじゃないか、と主張したいときに使えそうです。覚えておきたい。

ふと思ったのですが、こういう管楽セレナードをいいなあ、と思う心情は、たぶん、ワーグナーにはあまりない(ジークフリート牧歌を彼が弦楽器なしに書けたとは思えないし、木管のごちゃごちゃしたアンサンブルは、ベックメッサー=ハンスリックへの皮肉扱いされてしまう)。でも、リヒャルト・シュトラウスには管楽セレナードへの愛着がありますよね。なんといってもお父さんがホルン吹きだし。

マーラーの立場が微妙で、彼が管楽器を突出させるときは、もっと尖った音色でチェコの軍楽かクレズマー音楽にしてしまう。でも、管楽セレナード風の響きが彼の交響曲に出て来ないわけじゃなくて、こういう木と息の暖かい手触りのハーモニーは、マーラーの交響曲では天国として扱われているような気がします。4番ですね。

ベタ過ぎる解釈ではありますけれど、

  • (1) 大学出のインテリ、19世紀教養市民のベートーヴェン主義者たちは、管楽セレナードに特別の反応を示さない。(ベートーヴェン自身は若い頃に管楽器の室内楽に取り組んでいたのだけれど、受容史では傍流扱い。)
  • (2) 楽隊から成り上がった音楽家であるブラームスやリヒャルト・シュトラウスは、管楽セレナードへの愛着をモーツァルトへの思慕と重ね合わせた。おそらくこれが、ナショナリズムの文脈では「楽師気質 Musikantentum」の水脈のひとつかと思われる。
  • (3) ボヘミアのユダヤ人マーラーは、管楽セレナードとクレズマー音楽の差異を極端に大写しにして、これを天国と地獄の描き分けに利用した。

ヴォーン=ウィリアムズは「ドイツ音楽はひとつのナショナル・ミュージックに過ぎない」と言ったそうですが、例の壮大な「音楽の国」の話ではない他と横並びの a national music をドイツに求めるときには、しばしば(2)が話題になりますよね。職人の国ドイツ、暖かい家庭を大切にする共同体志向のドイツ、というやつ。

そしてセレナードとクレズマー音楽のドメスティックな差異を universal な表現に昇格させるマーラーは、これを「音楽の国ドイツ」時代におけるドイツ人/ユダヤ人問題に接続しちゃった、という解釈になるんですかね。