歴史と神話、ドクサとクイズ

[追記:神話と宗教を同一視してはいけないと思い直したので、いくつかの箇所で表現を書き改めています。]

歴史関係で疑問が沸いたら山川出版社(創業1948年、戦後の会社なんですね)。

歴史意識の芽生えと歴史記述の始まり (世界史リブレット)

歴史意識の芽生えと歴史記述の始まり (世界史リブレット)

●王朝史と「正しい臆見」

多くの地域で碑文や口承の歴史は王朝の系統を伝えることからはじまっているらしい。王権の正当性を主張するための記録が歴史、ということでしょうか。

旧約聖書はユダヤ王朝の歴史が神との契約を伝える律法として宗教正典になり、さらには世界の終わり・最後の審判で歴史の終点を設定することで離散して虐げられた人々に救済のヴィジョンを提示したとされ、中国の史書は、古代の理想の王朝の故事来歴を引いて為政者に礼節を教える倫理・哲学の役割を果たしたとされる。この2つはやや特殊だということで、本書では別立てで論じられていますが、ひとまず、歴史の原点は王朝史である、と覚えておくとわかりやすそうです。

そうしたなかで、ギリシャの歴史書がペルシア戦争やペロポネソス戦争の史料や証言を「調べて書く」ヘロドトスやトゥキディデスから始まっている(そういうのだけが後世に伝えられた)のはどういうことか。

ギリシャに史料調査という知があったというよりも(これだとギリシャだけが偉かったことになってしまう)、都市国家が言語や哲学ほどには歴史を重視していなかったからではないか、というのが著者の説のようです。

ギリシャ哲学に照らすと、人間世界の栄枯盛衰などというものは、不滅の魂を指し示さない臆見(ドクサ)であろう。調べて書けば、間違いはなくなるだろうけれど、所詮はドクサである。歴史はせいせい「正しいドクサ」だったのではないか、と。

●神話との闘い

この説明を読んで、王様の正当性を裏付けたり、王様に故事来歴で進言する仕事をするんだったら、ホモ・ルーデンスとして興味のあることを調べて「正しいドクサ」に思いを巡らすほうが幸福な人生であろう、と私は思ってしまったのですが(笑)、

歴史をそういう風にいわば野放しにしていたギリシャでは、でもその一方で、デルポイのアポロンの神託が機能していたり、神話が政治や祭祀の後ろ盾として大事にされていたんですよね。

ギリシャ的には、神話はどうやらドクサではなさそうですね。

ホメロスの叙事詩で神々の世界と今ここに生きている我々の世界がつながっていることになっているし、ローマも、建国神話の叙事詩をウェルギリウスがラテン語のホメロス風の韻文で書き上げた。

(律法=旧約聖書も、ユダヤ民族のアイデンティティのよりどころという意味では、ギリシャやローマにおける神話と似た機能を果たしたと見ることができるかもしれません。デリケートな問題ではありますが……。)

そしてどうやらこのあたりに、歴史と神話の確執の芽があるのかもしれませんね。史料と証言を分類・分析して秩序づける歴史学に対して、人類学が神話的思考の普遍性を唱えて、その構造を一望しようと企てる、とか。

反対に、歴史学が、語り継がれてきた王朝史を「単なる神話なのではないか」と批判する武器として駆り出されたり……。

●神話の系譜学という調停案

そして歴史と神話の死闘を踏まえると、

「過去や現在において神話が機能している様子を、歴史として調べて書く」

というのは、対立を和解へ導く有力な調停案になるかもしれない。神話の系譜学は、やっぱり現状でかなり筋がいい位置取りなんですね。さすがです。

ただ、そうなると、

歴史家のほうは、うちらのやってることは所詮は「正しい臆見」に過ぎない、普遍性とか別に目指してないから、それでかまへんよ、の立場だと思うのですが、

神話が機能する圏内にいる方々は、「神話もまた臆見である」という見解を受け入れてくださるのかどうか。そのあたりに火種が残るのかなあ、という気はします。

やっぱり、宗教・信念の問題は残りそうだということですね。

(神話の系譜学は、神話を生成するメカニズムを解明するところまで行けるはずだ、ということはあるかもしれないし、ニーチェの系譜学はそれを目指したわけですけれど、宗教と神話の関係については別途あとで考えたいと思います。)

●ロラン・バルトと篠沢秀夫

というわけで、「臆見(ドクサ)」とのつきあい方が焦点であるらしい事情が見えてくるわけですが、

ウィキペディア(それ自体が「臆見」の塊である(笑))の「ドクサ」の項目をみますと、古代ギリシャの用例の説明のあと、いきなりロラン・バルトに飛んでいます。

ドクサ(doxa)とは本来、ギリシア語で「臆見」を意味する語であり、後に様々な意味で解釈された。クセノパネスをはじめパルメニデスやプラトン等の古代ギリシア哲学者は哲学用語として使用し、またロラン・バルト等は文化批評用語としてこの語を用いた。

ドクサ - Wikipedia

(英語版の doxa はブルデューに飛び、ドイツ語版では、doxa の独立項目はなく、Meinung の項目へ行けと言われて、そこでは、Meinung の概念史がニーチェに至る構成になっている。フランス語版は、バルトも出てきますが、Charles Grivel, Esquisse d'une théorie des systèmes doxiques, 1980 というのを参照しているようです。doxa はどこの国でも取り扱いに苦労して、万国共通の普遍的対策はないようだ。)

で、バルトのドクサと言えば「神話作用」、訳者は篠沢秀夫ですよ。

日日のドクサから「今日の神話」を華麗に摘出する評論家と、「正しいドクサ」をどれだけたくさん貯め込んでいるかを競争するクイズ番組の模範的にダメな回答者の組み合わせですよ。

このあたりが、日本の大学人の処世の落としどころ、なのでしょうか。

こんなオチでいいのか、自信はないが。

神話作用

神話作用