ゼロ年代の mythos 話法

49歳の手習いが続く(笑)。

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大栗裕が、天の岩屋戸の物語による音楽をまず吹奏楽のために書いて、次に管弦楽編曲したときに、邦題は「神話」、欧文タイトル(朝比奈隆が大フィル定期で初演したあとヨーロッパに持っていった)は「Legend」としていたのを思い出して、

myth と legend はどう違うんだ、と調べてみたら、legend は中世イングランドやフランスで年代記 chronicle に記載や痕跡が残らないような聖人伝承が legenda と呼ばれていた、というようなキリスト教の文脈にたどりつき、一方、myth は、アリストテレス詩学のキーワードのひとつであるところの mythos というのがあるんですね。

アリストテレスの詩学がかつての大デュオニソス祭の劇(いわゆるギリシャ悲劇)とホメロス叙事詩を論じるときに、mythos という言葉を独特のやりかたで使うのは、神々と英雄たちをめぐる伝承の役割・働きを宗教的な含意と切り離して取り扱おうとする姿勢のあらわれなのだと思いますが、

どうやら、詩学というテクストにおける mythos の語は、「往年のギリシャ都市国家が信奉する(信奉した)神々と英雄たちの話」という宗教的・文明論的な意味で読んでも、「ドラマの筋」という芸術論・文学論的・技術論的な意味で読んでも、どちらの水準で読んでも意味が通るように書いてあるようです。

そうしたアリストテレスの態度を踏まえて、現代語訳では、詩学における mythos の語をひとまず「筋」と訳すようですね。

で、詩作は mythos の再現(ミメーシス)であって、mythos こそが詩作の目的(テロス)であり、既に起きたこと(歴史)ではなく、ありうべき行動が扱われる等々という言い方は、神々と英雄たちの伝承について、「それは本当なのか」ということを問わずに、悪く言えば棚上げにして語ろうとしているわけで、巧妙なレトリックだなあと思います。

mythos の語が、こういうレトリカルなテクストを通じて伝承されてきたからこそ、古今東西の超自然的なキャラクターたちを収集して、そのようなキャラクターたちのセカイをあれこれ詳細に語り合う楽しみと、バルトのように、今日の臆見から様々な構造をエレガントに取り出す評論(参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150319/p2)が、どちらも「神話学 mythology」と呼ばれうるのでしょう。

つまり、mythos は、宗教の領域に隣接しているけれども、信不信の態度決定を迫られることなくそれを取り扱うことを可能にする話法(のひとつ)なんですね。

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そして人文系学者さんたちがしばしば(再び)しきりに「神話」の語を口にするようになったのは、おそらく、90年代以後のご時世もあったのでしょう。

20年前に大変な話題だったカルト教団さんの宗教的内実については様々な見方がありますが、あの方々が mythos を弄んだ結果が1995年の事件だったのは否定しがたい。

そして2000年代に入ると、にわかに「知財立国」と言われて、OS(その頃から「基本ソフト」という不思議な訳語で呼ばれるようになりましたね)を制する者が世界(セカイ?)を制するかのような風潮になった。こちらは、北米西海岸で「本当の進化がはじまった!」と喧伝された末の、一種の外圧でしたが……。

当時の野心的な若手人文学者さんたちは、90年代の mythos に傷ついた心を抱えながら、そこから蘇生・再生するために新しい文化のオペレーティング・システムの記述に邁進した。

「動物化」とか ised とか、ありましたよね。

文化の概念分析で、タイプだ、トークンだ、というのもその流れでしょう。

ドイツ音楽における「神話の系譜学」は、きっとそういう時代思潮の決定的なポイントを突くプロジェクトとして構想された面があったんだろうなあ、と思います。

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最近は、そういうことをやった世代の人たちが、やや落ち着いて、むしろ「目先のことにとらわれては道を誤るぞ」と説教する側に回っていますが、

1970年代生まれの人たちだって、若い頃は「今このとき」のなかでもがいていたよ(笑)。

もう時効やから、正直に認めるべきは認めといたほうがええと思う。

「神話の系譜学」で、ひとまず20年のケリが着いた。おそらく、そういうことなのでしょう。