補遺の補遺:神格化

神話が好きな人たちとはつきあいきれない、と調べれば調べるほど思ってしまうのですが、

伝説 legenda が語り継ぐ人物は偉人 a great man であったり聖人であったりする一方で、神話の世界には英雄 hero ἥρως が登場するわけですね。

で hero って何だとあれこれ検索すると、祖先崇拝や君主崇拝というのが出てきて、古代ギリシャのヘロオン heroon ἡρῷον (霊廟と訳される墳墓と神殿を兼ねたような建造物)の説明にたどりつき、神格化 apotheosis ἀποθέωσις という概念をもちだすと、このあたりの諸々を整理することができるらしいことがわかってきた。

紀元前9世紀の幾何学様式時代以降、ギリシアの創世神話と結びついた太古の英雄をヘロオン(英雄神殿)で祀る儀礼が生まれた。

神格化 - Wikipedia

かつては、アキレスのヘロオンに人々が詣でたと伝えられていたりもするようですね。

祖先信仰で家の先祖を祀る、とか、君主・支配者が死んで神になる、という考え方と関連していて、東洋の様々な信仰・習俗との連想が働くので比較的わかりやすい一方で、

英文において「キリストが人間性を神格化(deification)した」というような記述においては、"apotheosis"は使われない。また"theosis"は別概念である(後述)。

というように、キリスト教には英雄崇拝を独特にやり方で否定もしくは抑圧する教義が含まれているようにも思われます。

でも、キリスト教が弱ると、ヨーロッパでも古代風英雄崇拝が台頭しており、彼らは「懲りない人々」であるようにも見える。

絶対王政がオペラ・セリアを歓迎したのがそうなんじゃないかと思いますし、

ベートーヴェンのエロイカ交響曲に葬送行進曲が含まれるのは、ギリシャ風英雄崇拝(英雄の死は、人が神になる臨界点として厳粛である、トロイの王が敵陣に乗り込んでまでヘクトールの丁重な弔いを求めたように)だと思いますし、終楽章のプロメテウスの主題による変奏曲は、まさにこういうのをアポテオーゼと呼ぶのでしょう。

ナポレオンに至るフランス革命は古代ローマ風の意匠で新生フランスを飾ったと言われていますし、ベートーヴェンは、フランスに持っていこうとした大交響曲を古代風の構想で書いたんでしょうね。

(フランスによる革命の輸出が好調だった頃のエロイカ交響曲はヒロイズム礼賛で、夫婦愛が悪を倒す「フィデリオ」(ウィーン会議期間中の再演が最終稿になる)をはさんで、ナポレオンが失脚して10年近く経った頃の「第九」は、シラーをもちだして、兄弟愛をヒロイズムとは違うやり方で讃えるわけですね。)

北方神話の英雄ジークフリートをワーグナーがベートーヴェン風の葬送行進曲で弔うのは、これがやりたくてリングを書いたようなところがあるのでしょうし……、

で、「神は死んだ」のニーチェの哄笑を交響詩で謳歌した時代のリヒャルト・シュトラウスが、「英雄の生涯」を書いた。

(そして彼は最晩年のメタモルフォーゼンでエロイカの葬送行進曲の主題を使っているのだから、ヒロイズムのみならず、その後始末のやり方まで、100年前のベートーヴェンを反復したと見ることができるのかもしれませんね。)

「男って、いくつになってもこうなのね」感がある話だけれども、ヒロイズムをおおっぴらに享受できるからクラシック音楽が好きだ、という男子は今も/常に一定数以上いますよね。

あれが神格化/アポテオーゼというものであるようだ。

(新垣さんは、ヒロイズム/アポテオーゼとは思い切り遠いタイプのキャラクターに見えるわけですが、ゴーチが自らを振り付けつつ周囲から振り付けられた物語は、ヒロイズムと見ていいのだろうか。そして科学ジャーナリズムがインパクト・ファクターを重視する風潮のなかで「発明・発見」を讃えるときに、いつしか、伝説の偉人のレトリックより、ヒーローの神話が支配的になりつつある今日この頃、と解釈して大丈夫なのだろうか?

日本のコンサル、代理店は手法が画一化していて、「卓越性」を際立たせるときには英雄崇拝のレトリックにすれば大丈夫、と安直な仕事をしているだけなんじゃないか、と思えたりもするのだが……。

「今日の神話学」、21世紀の篠沢秀夫の読みの精度が問われる局面なのかもしれない。ここでエレガントに振る舞うことに成功すれば、古館さんの隣に座るのも夢じゃない……のかもしれない。それが21世紀の大学教員にとって、今もまだ望まれる夢なのか、定かではないが。)

参考:

アリストテレス『詩学』におけるミュートス概念

アリストテレス『詩学』におけるミュートス概念

学習院(篠沢先生の学校!)でこういう論文で学位を得た人がいらっしゃるようなので、やっぱりみんな、同じようなところに目をつけるものであるらしい。