共和主義者は決断する(ジョン・G.A.ポーコック『マキァヴェリアン・モーメント』)

マキァヴェリアン・モーメント―フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統

マキァヴェリアン・モーメント―フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統

  • 作者: ジョン・G.A.ポーコック,John G.A. Pocock,田中秀夫,奥田敬,森岡邦泰
  • 出版社/メーカー: 名古屋大学出版会
  • 発売日: 2008/01
  • メディア: 単行本
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フィレンツェはシーザーを暴君とみなし、彼を裏切るブルータスを讃えた。共和主義者マキャヴェリはそういう風土から出てきた人であって、共和主義は、そういう決断をできる人間がいなければ回らない。

ギリシャやローマの古代都市国家にはそんな共和主義(かなり怖い)があったはずだとルネサンスのユマニストが信じて、これがイングランドや北米に伝播した。

……なんでこの本はこんなに読みにくくて、しかも分厚いのかと思いながら読み進めると、どうやら、そういう話であるらしかった。

そもそも、そんな「決断」はしかるべきときにしかるべき人にしか巡ってこないはずで、いわば帝王学のネガみたいなものなのだから万人向けにやる必要もないし、わかりやすくストレートに書くと何が起きるかわかったものではない。

人を寄せ付けない秘伝っぽく書いているから、こうなったのでしょうか……。

「マキャヴェリなタイミング」とでも言えそうなタイトルは、マキャヴェリこそがそのような「決断のタイミング」に気付いた人であった、という意味合いと、そのあと「決断」の秘伝がどのように伝承され、どの国がどのようにマキャベリな決断をしてきたか、そっちについても書きます、という両方を指しているようだ。

結局、為政者の首をはねるタイミングを指南します、ということで、まことに政治学は恐ろしい、とわかったから、もういいのですが、

こういう話をするときに、マキャヴェリは運命の女神 fortuna を手なずける virtù という言い方をしているようで、virtù はラテン語の virtus からギリシャ哲学のアレテー ἀρετή に遡る倫理学の系譜があるということで「徳」と訳されるけれど、どうやら、「勇気」や「度量・力量」など「男らしさ」のニュアンスを多量に含む言葉であるらしい。

で、そういう決断のできる勇気ある男が virtuoso ということになるようですね。

virtuoso のマッチョな感じ、ホロヴィッツがここ一発で炸裂させるニューヨーク・スタインウェイの響き。岡田暁生がチラつかせて周囲をビビらせていたのは、これですな。

クラシック音楽は、国民の皆様のための神話的英雄だけでなく、特別室には、エグゼクティヴなマキャヴェリ的決断も取りそろえております。

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そういえばヴェルディも、ある瞬間に「決断」してスイッチが入って観客を瞬殺しますよね。そこが任侠の浪花節とは違う。コンヴィチュニーの演出だと、ヴェルディがしばしばテノールに託すそういった「男の決断」をはぐらかして、別のモーメントで異化してしまいますし、ヴェルディ自身、数年に1作くらいしか書かなくなった後半生の作品は、ちょっと様子が違っているように思いますが……。もちろんオテロもそう。(だから福井さんのは、頑張り方がやや方向違いじゃないかと思うんですよね。)

……以上、勝手に西洋古典を復習する日日は、こうして、神話の森と砂漠を潤す愛の宗教を抜けて、ルネサンスへ。

完全無欠なユニヴァースの永遠不滅の円運動(universe って「円」のことなんですね)を離脱して、運命の女神が待ち受ける有限な時間空間へ堕落・墜落した人間たちが、再びユニヴァースの円運動に向けて「回転の軸を戻し」(それが revolution の原義みたい)、贖罪と救済へ至るまでの temporal 束の間の俗世において、波瀾万丈を繰り広げる時代に入りました。