大作曲家の私生活と雑用の研究

音楽学会の機関誌が届いて、シューベルト論文の参考文献で彼の交友関係、いわゆる Schubertiade の面々についても調べが進んでいることを知る。

そういえば、学会誌とは関係ないが、シューマンについて、彼の著作集が、NZ の編集人としての業務がどういうものだったのかの調査を含めてまとめ直されているのを何年か前に知ったときにも、なるほどと思った。

19世紀の「大作曲家」の楽譜の批判版に目処が付いて、周辺を調べる段階が来ているのだと思う。

      • -

過去数十年、北米からドイツを見物している人たちが「近代の神話」を英語(米語?)で散々野次ったらしいけれど(笑)、

戦後、楽譜の批判版作成が国家プロジェクト級の規模で進行して、ドイツの音楽学者たちは「楽譜の解読」から研究を組み立てる傾向が強かったわけだが、これは、楽譜を典拠にして議論するのが最も確実な再出発地点である、という判断だった可能性があるんじゃないだろうか。

野次馬たちは、鬼の首を取ったように、楽譜信奉は「西洋中心主義」であり、彼らはいつまでたっても音楽の「純粋性」と「普遍性」を信奉していると言い募るが、そうじゃなくて、根拠の怪しい神話的形而上学からトップダウンで音楽論を組み立てるのは弊害が多いからもう止めましょう、というのは、ドイツの研究者たちも重々わかっていたのではないか。

「アウシュヴィッツ以後、もはや詩は不可能である」

の認識は、ちゃんとあったのではないか。

(「神話」というのは、ホメロス以来、韻文で朗唱するのが基本ですから、「神話」もまた「詩」です。)

そして詩を吟じるのをやめて、確実な事実 fact から音楽研究を再編しようとしたきの出発点が楽譜だったということなのではないだろうか。

今でも「普遍性神話」を信奉しているのであれば、楽譜を校訂し終えたところで、「これさえあればもう十分」と音楽研究をおしまいにしてもいいはずだ。そうではなく「大作曲家」たちの私生活や雑用の調査に向かっているのは、野次馬たちの批判に、どんな反論よりも雄弁に、「態度で応答している」のではなかろうか?

空理空論に果てしなく耽っているのは、どちらであるか、と。