「社会と私」系人文学と独断系・直観系現象学

[フッサールをそこまで悪く言うものではないと思い直して、少し修正]

「かたち」の哲学 (岩波現代文庫)

「かたち」の哲学 (岩波現代文庫)

ひととおり最後まで目を通したが、「モリヌークス問題」のところは、読み返してちゃんと頭に入れておきたいなあと思った。

デカルト、カントばっかり言うな、という加藤先生のご不満は、「現象学というのは最悪である」という激しい口調で頂点に達するようですね。[追記:当人にその意図はなかったかもしれないけれど、あのアプローチは、一番大切なことを他人からアクセスできない領域に囲い込みたい人たちに悪用されやすい、秘教に転用されやすい気がします。]

批評空間世代というか、柄谷行人を面白いと思ってしまった人間は、西洋哲学の「主観と客観」という問題設定を「私」と「社会」の問題、小林秀雄の「社会化した私」とか、廣松渉の共同主観性がどうたらとかの線で読むと思うんですよ。

このストーリーだと、カント、ヘーゲルの先にマルクスやフロイトが出てくる流れがとてもわかりやすく面白い読み物になる。

たぶんこれは、「主観と客観」問題を社会科学につなげる左翼の伝統みたいなものなのでしょう。

(「ナショナルであることが普遍であり、普遍であることがナショナルである」という仮説も、アドルノを介して、このラインに乗っている話ですよね。批評概念のかわりに「進歩史観」をはめ込んであるけれど……。)

現象学も、サルトルの実存主義につなげてアンガージュマンとか、そういうのがありましたが……。

でも、五感や知覚とは何なのか、外界とヒトの思惟の関係を自然科学、認知論と齟齬を来さないように論じようとすると、別の系譜が浮上する。

そして現象学は、社会科学とはそれなりに仲良くできるかもしれないけれど、自然科学との関係がどんどん険悪になっていく最悪のどんづまり、自然科学から見たら、ほとんどオカルトじゃないか、ということになってしまうんだと思う。

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音楽分析にも、現象学・解釈学系の語彙と発想でやろうとした時代が20世紀の半ばにあったようです。

が、その系譜の議論は、独断と偏見の印象論と見分けがつかなくなってしまうんですよね。(さらにハイデガーを加味すると、「バッハは Rede の音楽だ」とか、「モンテヴェルディのモノディ様式マドリガルにおける存在の開け」とか、大変なことになる。)

「ああいうのは、恥ずかしいから絶対やるな」と、学生の頃、岡田・伊東両先輩に真っ先に言われたのを思い出します。

無味乾燥な成分分析と、現象学の名を借りた独断を架橋する方法を整備するのが遅れて、音楽の分析には、その頃のネガティヴなイメージがいつまでも残っているようですね。

不幸なことです。

「それは音楽構造の自律的な分析に過ぎない」

というのは、その頃の批判の紋切り型で、やるほうも、そういう批判を投げつけるほうも、どっちも不毛なことであった。

数学の現象学: 数学的直観を扱うために生まれたフッサール現象学

数学の現象学: 数学的直観を扱うために生まれたフッサール現象学

「直観」(数学的/哲学的な)に過剰な期待を掛けたのは、現象学の長所というより致命的欠陥だったのではないか。