「制度 institution」再考

ドイツ法のパンデクテンについては、ここで何か言及されていたはず、と読み直してみた。

ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇

ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇

第2回、白田先生が講演した回に出てきますね。(本ではなく、かつて、はてなに公開されていたログをハードディスクから発掘した。)

東: 補足しますとね、こういうことだと思うんです。クリエイティブ・コモンズは、新しいライセンスを新しいアーキテクチャとして提案する運動です。言い換えれば、それはひとつの環境管理型権力です。しかし、このライセンスが普及すれば、現在の乱暴な著作権管理の拡がりを阻止し、ネットワーク上に新しい共有地(コモンズ)が形成される。それは結果として、規律訓練の層においても、情報の共有についての新しいコモンセンスを育てていく。そして、そのコモンセンスの拡がりが、ふたたびクリエイティブ・コモンズのライセンスを後押ししていく……。クリエイティブ・コモンズの戦略には、そんな循環構造が組み込まれている。

白田: ふむ、しかもレッシグはアメリカの非常に古いタイプの著作権法理論をきちんとふまえたうえで、クリエイティブ・コモンズに正義ありと考えて実装に踏み込んだわけですから、考えてみると私の提案したことはクリエイティブ・コモンズで実践されているといえますね。
鈴木謙: 著作権であればそういう実装がありえるかもしれない。つまり実装するアーキテクチャが価値を再生産するように設計するということですね。しかし社会全体の話となるとそれはどうか。先ほど東さんは市場の論理のお話をされましたが、要するに著作権者やコンテンツホルダーが損をするというロジックから、著作権違反を防ぐ完全実行が強化されていくのに対して、私たちの社会にはまだ呼び出す価値があるんだといえるかもしれない。しかし、それは社会全体として可能なんでしょうか?
白田: 同じ手法が、社会全体の設計に使えるのか……。
鈴木謙介: そして、社会全体に及ぶ価値はあるのか。それは非常に疑問なんですね。
白田: うーん、いまの段階ではなんともいえないんですけどね。ただ、かつて19世紀に近代ドイツ法がつくられたときには、法学者たちはローマ法大全から多くの概念をひっぱりだし、精緻な学問的研究を重ねたんですね。そして基本公理を整え、そこから論理演算をすることで「全部の概念が説明できる」という体裁をとる、パンデクテン法学*2という体系を築きあげた。でもね、それにかかった年月はおおよそ100年なんですよ(笑)。
東: いいですね(笑)。その100年をもういちど始めようというわけですね。

ということで、

ゼロ年代用語で言えば、「市場の論理」(欲望が換金される島宇宙)と「セキュリティの論理」(環境管理の生政治が支配する監視社会)の二重構造であると東浩紀が整理したところの来たるべき「情報社会」は、上部構造では人々が自由に拡散しつつ、下部構造では動物的にびっちり管理されて息苦しい世界になりそうだ、という話の流れで、だったら、かつてドイツの法学者たちがローマ法を解析してパンデクテン法学を築き上げたように、リアルワールドに残存する伝統的な価値を100年かけてコーディングする「サイバー保守主義」を導入すればいいんじゃないか、という議論が10年前に盛り上がっていたようだ。

まさにこれがゼロ年代の人文学の最先端。「近代の神話」を今のうちに精緻に記録しておこう、というプロジェクトを動機づける理論的な枠組みであったと見ていいのかもしれない。

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ただし、この討議は、この段階での議論の限界を同時に示唆しているようにも見える。

東浩紀(以下、東): ここでもうひとつ補助線を引きたいと思います。

白田さんは講演の冒頭で、法と法律を分けるべきだというお話をされていました。その両者の区別は、ラテン語ではlexとjusだと書かれていた。lexが「法律=書かれた法律」を、jusが「法=調和した状態」を指すというわけです。

ところで、jusというラテン語は、言うまでもなく英語やフランス語のjusticeの語源にあたる言葉です。つまり、これは正義という言葉です。白田さんは「法律」と「法」を分けるという言い方をされていたわけですが、これは翻訳の仕方を変えれば「法」と「正義」の問題でもある。多くの聴衆や読者にとっては、むしろそのほうが分かりやすいかもしれません。この研究会は「倫理研」と冠しているんですが、そういえば正義という言葉はほとんど出てこなかった(笑)。しかし、白田さんはここで、情報社会における正義の問題をさりげなく提起してくれたと思うわけです。

白田さんの説明によれば、英米法におけるlaw(法/正義)とは、正しい状態、ものごとが調和された状態を意味する。そして個々のcode(法律)は、そうした調和の感覚がないかぎり機能しようがない。したがって、その感覚を情報時代においてどのように確保するのかが重要になる、と白田さんは言うわけです。これは要するに、情報時代における正義=調和とは何か、という問題なんですね。

この前後でデリダ「マルクスの亡霊たち」や「法の力」への言及もあり、東浩紀は「サイバー・パンデクテン・プロジェクト」とでも呼ぶべき提案を正義の問題に変換して、第3回の北田暁大の講演につなげている。

マルクスの亡霊たち―負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル

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法の力 〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

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責任と正義―リベラリズムの居場所

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「情報・記号・表象」と「コード・法律」と「倫理・正義」を最短距離で串刺しにする手際は、評論家として鮮やかだと感心する反面、ローマ法の継承・再解釈が必ずしも一枚岩ではなく、近代の法学が咀嚼・要約(pandectae)と制度化(institutiones)に枝分かれしたらしい、という話に展開することはなかったようだ。

パンデクテン法学というのは、要するにドイツ教養主義の一翼を担って観念論や純粋数学とパラレルな現象で、一方、ローマ法の制度化というのは、おそらく、フランス風の政策科学と相性のいい発想なのだと思う。

合理論と経験論の対立はヨーロッパのその後の思想史の展開に回収されているけれど、制度論、政策科学は別の道を歩んだ感じですよね。

(シンクタンク向きの領域で、ised にも「設計」部門が入ってはいたけれど、そこで institutiones を捉えることができたのか、ちょっとよくわからない。ised から出てきた「滑らか」の人はアイドル神学へ行っちゃったし……。ゼロ年代サブカルチャー論は、ここが弱点だったのではないか。)

右と左のイデオロギー論をいかにアップデートするか、ということは熱心に延々と議論・観察された一方、制度論は、理論的・思想的裏付けの弱い政策論争というか政局の火種として現場の政治家さんや役人さんがやりたい放題、言いたい放題で、思想や知性の支えを欠いた政策(論)の暴走が昨今のこの惨状、なのかもしれないのだから、困ったことではある。

(リベラルの期待を背負って民主党が政権を取ったけれど、まっとうなブレインはいないし、政策は迷走するし……、というのが、「それぞれの正義」を語りつつ地に足の付いた制度・政策を提案できなかった「ゼロ年代」のひとつの帰結だったのかもしれない。)

そして institutiones は、制度の話であると同時に、ガイド・手引きの話でもあるので、案外、インターフェースとは何か、という話題に接続できたりするのかもしれない。

ひょっとすると、ゼロ年代のニッポンが扱い損ねた論点なのかも、と思ったので、メモしておく。