科学は苦い

科学アカデミーと「有用な科学」 -フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ-

科学アカデミーと「有用な科学」 -フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ-

優等生的な読書感想文としては、

「科学は役にたちますよ」と国王に取り入って科学アカデミーで150年間、潤沢な資金と恵まれた環境を享受した啓蒙家たちは、儚くも革命の露と消えた。科学者が「有用性」を喧伝して、世渡りを画策しても虚しい。これを教訓にして、地道にやろうと思います。おわり。

ということになるのかもしれないが、

フォントネルが科学の「有用性」を訴えたときには、科学を様々な技術に応用できて便利です、という、ありがちな話だけでなく、

科学の明証性がもたらす「秩序と簡潔」は精神に良い

と主張したらしい。

そしてその際、パスカルの「幾何学精神」という言い方を引き合いにだしたのだとか。

つまり、科学アカデミーが信奉する「有用性」概念には、「科学が健やかな精神を育てる」というのも含まれていたらしい。

どうやらこのあたりは、いわゆる「フランス的明晰」なる言い方とも結びつきそうで、決して、アンシャン・レジームとともに霧散したわけではなさそうだ。

「科学は善」

なのですよ。

そして啓蒙時代の科学は、こういう「すっきりさわやか」と時に対立しながら、統計調査や政策提言など、明証性ではなく蓋然性(きっとそうであろう、のプロバビリティ)でやっていくしかない領域に踏み込んでいく。

だから、

「きれいごとばっかり言うのはダメだが、実利だけを求めるのもいけない」

とか、

「一過性の流行と、長く残るものを見分ける目こそがサイエンスである」

とか、

訳知り顔に言いがちな人たちこそ、アンシャン・レジームの科学アカデミーの成り行きを、こりゃ他人事じゃないな、と噛みしめたほうがいいと思う。

人間は、何度でも同じようなことを考えるし、何度でも、ほとんど同じ筋道で、「危機を回避できる」と思い込む。

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著者は19世紀の功利主義と区別するために、敢えて本書で utilité に「有用性」の訳語を当てたと書いているが、伝統の古い真実や、約束の地=エンドへと至る未来に対抗して、「いま」の「われわれ」を全力で肯定しようとする切実な叫び、みたいなところがあるかもしれない。

そういえば、「考える葦」の人をそういう文脈で実存主義の源流に位置づける議論が、かつてさかんだったようですが……。

むしろ科学(のみならず「知全般」かもしれないが)は「苦い」。でも、必要ではある。

明るい未来の進歩と調和、でもなく、ひと頃の世界すべてを敵に回すかのような実存主義のしかめ面でもなく、苦さを噛みしめながらつきあうために、「有用性」を考え続けないとしょうがない、ということだと思う。