音楽における「県」と「市」

上で書いた「市町村は藩の後継、都道府県は国の出先」という区別で考えると、兵庫と滋賀に立派な音楽堂があるのは、新国立劇場設立と連動した「国の政策」を県が実現している形になる。一方、京都でこのところ評判がいいオーケストラは「市」が作った団体で、国はあんまり関係ない。そして大阪がなんだかよくわからないのは、府はもちろんのこと、市までもがああいう連中に乗っ取られたから、ということで、実にわかりやすい。

(どうも世間は事態を見誤っているような気がしてならないのだけれど、だから、兵庫の佐渡裕は、難しい力学のなかに編み込まれていながら、なおかつああいうキャラクターで舞台に立ち続けて、大した人物だと私は思います。そんなことができる指揮者は、他にいないよ。)

そして大阪では、府も市も頼りにならないということで、国と直接交渉するルート(まあいわば「コネ」だ)を作ろうとする民間人が出てくる。これは昨日今日のことじゃなく、以前からよくある話だが、こういう「コネ」は、どうしても、「裏技」扱いになってしまう。

(最近でも、「え、どうしてこんな立場の人が今頃、霞ヶ関回りなんてやってるの?」と思ったら、しばらくして、ああなるほど、というような数字が出てきたりしている。危ない橋渡ってるなあ、そういう人たちとは距離を置いて正解だったなあ、などと、平穏な人生を送りたい人間は思うわけだ。)

朝比奈さんや米朝さんが大阪で尊敬されているのは、大阪の民間人として大成したけれど、「国」とのホットライン、みたいな「裏技」に自ら手を染めることがなかったからだと思う。必要なときは、周りが動いたんだろう。そういう二枚腰三枚腰じゃないと、シロウトは「政治」に迂闊に手を出せないよね。

古都のオーケストラ、世界へ! ──「オーケストラ・アンサンブル金沢」がひらく地方文化の未来

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アンサンブル金沢は、「金沢」をイメージ戦略として前面に立てているけれど、実体は「石川県」の事業で、このあたりを岩城さんがどのように采配したかということは、この本にもひととおり書いてある。

一方、小澤征爾の夏の音楽祭は松本「市」。バーンスタインが立ち上げたPMFも、公益財団法人で今でははっきりわからないけれど、組織概要をみると、札幌「市」が関わっているように見える。

都道府県主体の事業と、市町村主体の事業を色分けしてみなおすと、十把一絡げに「地方創成」と言われている事柄が、違った風に見えてくるんじゃないだろうか。

そしてこういう風な当世のこの国の「地方行政」のことを考えようとするときには、「ナショナル・アイデンティティ」な「神話」が「観念」として跋扈したドイツを参照するよりも、地域の諸問題を中央政権が強い政治力でとりまとめているフランスを横目にみながらのほうがいいのかもしれない。

ドイツ的な「劇場」をやろうとコンヴィチュニーがやって来ても、この国(島)のなかの事情は、彼の地とは何かちょっと違うようだ。

朝比奈隆のオペラの時代―武智鉄二、茂山千之丞、三谷礼二と伴に

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往年の朝比奈隆と関西歌劇団の取り組みは、帝劇の残党による浅草オペラや藤原義江、精力満点だった山田耕筰以来の日本の「民間オペラ」の系譜だと思う。そのままの形が今やれるとは思わないけれど、西宮のオペラや大阪音大のオペラハウスを関西(大阪だけじゃない)のお客さんが面白がるのは、何かが継承されていると見えるからだろう。

東京の人みたいだけれど、びわ湖で評判のいい藤原歌劇団の砂川さんにも、近い感じの何かがあるよね。

基本的に、アヴァンギャルドになることはあっても、決してワグネリズムには行かないイタリア系だと思います。